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日蓮大聖人・池田大作

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人間について  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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16  大脳移植の是非
 池田 心臓移植は是か非か、についての論争は、いまだに明確な解答はだせないようであります。心臓移植には、腎臓とか角膜、血管などの移植に比べて、直接、人間の生死の問題がからんでくるからです。だが、もし、人工心臓の開発が進めば、提供者の死を考慮の外におくことは可能となりましょう。
 そこで、最終的な臓器移植として浮かびあがってくるものは、大脳の移植であります。将来、大脳移植が技術的に可能になった場合、この移植を認めてよいものでしょうか、どうでしょうか。
 また、他者の大脳を受け入れた人間生命における主体性の問題はどのように理解すべきでしょうか。
 松下 大脳移植が技術的に可能となった場合、ということですが、私はまずそういったことは可能にならないのではないかと思うのです。また、もしかりに大脳移植が可能になったとしても、それを実際に行なうことについては、どうも賛成する気になれません。
 大脳移植をなぜ行なうのかといえば、やはりそれは人間の生命の維持のためでしょうが、大脳を移し替えてまで生命を延ばそうとすることが、はたして人間に許されるのかどうか、いささか疑問に思います。死ぬべきは死ぬ、寿命を終えたら死ぬ、というのが人間のほんとうの姿であり、そこにまた新たな生命も生まれてくるわけです。すなわち、死ぬべきが死に、そして新たな生命が生まれる、という姿こそ、生成発展という自然の理法のあらわれでもあると思うのです。ただ、そうはいっても、大脳ではなく、たとえば心臓の移植を行なうことは、これは許されるのではないかと思います。心臓の移植については、ご指摘のごとく、提供者の死の認定といったむずかしい問題もあるようですが、そういう問題がすべて解決されたならば、移植を行なってもよいと思うのです。というのは、心臓といっても、これは腎臓や肝臓と同じく、人間の身体の一つの器官にすぎないと思うからです。
 ところが大脳の場合は、これは、たんなる一つの器官とはいえないように思います。心臓や腎臓の移植の場合は、それによって人格が変わるとはいえないでしょうが、しかし大脳を移植したなら、これは人格が変わってしまうと思うのです。たとえば、かりにA君の大脳をB君に移植した場合、それは元のB君ではありませんし、さりとてA君かというと、そうも断定できないでしょう。これでは困ります。したがって、人格を左右するような移植については、簡単に「いい」とはいえません。
 かりにこの場合、B君が消滅してA君という人格だけが存続するとしても、それなら好ましくない人間の大脳を入れ替えてしまえといった姿も起こりかねないでしょう。さらに極端にいえば、トラに人間の脳を移植したらどうなるか、ということです。人間の知恵をもった猛獣となって、人間はみな食い殺されてしまうかもしれません。反対にトラの脳を人間に移植しても、大変なことになるでしょう。私はこのような姿は起こらないほうがよいと思います。したがって、私は、人間の生成発展という点からも、また大脳移植によって好ましからざる姿が起こるかもしれないという点からも、かりに大脳移植が可能になっても、それを実施することには賛成したくないと思うのです。
17  人間尊重のために
 池田 「人間尊重」という言葉は現代社会の通念となっています。しかし、現実には、公害や交通事故など現代の日本の社会には、人間を圧殺する力が人間個々に迫ってきております。真の意味で、人間尊重を叫ぶには、この社会問題を解決するための、なんらかの変革運動を抜きにして語ることはできないように思いますが、いかがでしょうか。
 松下 人間がお互いに尊重しあわなくてはならないというのは、当然すぎるくらいきわめて当然なことだと思います。その当然なことが、あらためて叫ばれている、そのこと自体が、人間が尊重されていない、なによりの証拠だとも考えられます。だから、今日、人間尊重ということが盛んにいわれているのは、それだけお互い人間同士が虐待しあい、圧迫しあっているからでしょう。そういう事態を解決し、人間尊重を実現するために、なんらかの変革運動が必要であるというお考えはまさにそのとおりだと思います。
 ただここで考えなくてはならないのは、そういう運動はこれまでにもいろいろあったということです。人間尊重を叫び、そのためになんらかの運動を起こし、また現に行なっている人なり団体は多々あります。そして、一面そうした運動によって人間尊重がより進んだということもありましょうが、逆に変革運動そのものが、また人間尊重を破壊する恐れも多分にあるような気がします。現に、最近のいろいろの運動をみていると、なかにはその運動が人間尊重を傷つけるという姿を呈している場合も少なくありません。人間尊重を唱えながら、かえって人間を圧迫し、自由を叫びながら、かえって他人の自由を束縛しているといった姿がしばしばみられるわけです。
 そういうことをやっている人びとは、けっして悪意でやっているわけではないと思います。むしろ、人間は尊重されなくてはならない、人間尊重がなによりも大切だという善意で運動しているのでしょうが、その結果は事志と反しているということです。
 なぜ、そうなるかといえば、これは結局、心に怒りをいだいてそういう運動を行なうからだと思います。怒りにかられ、不信感や憎しみに満ちて、いたずらに他を非難したり、責めたりするところに原因があると思うのです。怒りというものも、ときには必要ですが、それに終始しては、善意の運動も思わざる結果を生むでしょう。
 だから私は、先生のいわれるような変革運動は大いに必要であり、やらなくてはならないとは思いますが、そうした運動の指導者の人びとは、ここにのべたようなことを十分認識することが大切だと思うのです。日先だけで人間尊重を唱えるのではなく、ほんとうの人間尊重とはどのようなものかといった、いわば人間尊重の基本理念というものをしっかり把握し、人間の尊厳ということにもとづいて、変革運動の在り方を考えていかなくてはならないと思います。
18  ″人間革命″運動の評価
 池田 私どもは、社会を変革する、また崩れざる平和建設のための、本源的方途として″人間革命″という理念を訴え、現実に、運動として展開しております。これは、たんなる意識の変革という次元より、もう一歩掘り下げたところの、生命そのものの一念の変革ということです。この″人間革命″という理念と運動を、どうごらんになりますか。
 松下 先生が指導される創価学会が推進しておられます″人間革命″の運動について、その具体的内容を十分には存じ上げないのですが、ご趣旨は、今日の社会をよりよいものに変革していくについては、たんなる制度や機構を変えるだけではなく、まず人間そのものの変革が大切だというもののように理解しております。
 そうした理念なり運動の推進には、私は基本的に賛同するものです。
 今日、たとえば自由資本主義か共産主義か、ということで盛んに論議がなされております。そのことは、一面、意義あることとは思いますが、これはあくまで社会の体制の問題であって、人間自体の変革といいますか、人間観の問題ではないと思います。けれども、そういうことでは、必ずしも好ましい結果は得られないのではないかと私は考えております。従来の人間観をそのままとらえて、政治なり、その他の社会の仕組みだけを考え、これを変えてみても、それで人間社会の争いが少なくなったり、人間の真の幸せが増すものでもないことは、なによりも過去の歴史が雄弁に物語っていると思います。
 やはり、人間そのものの変革と申しますか、人間の本質の再認識ということがなされなければならないと思います。そして、その人間の本質にもとづいて、社会の仕組みなり、政治の在り方、共同生活の在り方というものが新たに考えられ、生みだされなくてはならないと思うのです。そういう人間の本質の真の把握なくして、これまでと同じ人間観にたって、いかに制度を変え、政治の在り方を変革してみても、多少の成果はあっても、基本的にはこれまでと同じように、依然として争いしげくして人間が人間みずからの不幸をもたらすという社会の姿が繰り返されるのではないでしょうか。
 最初にものべましたように、私は″人間革命″の運動の理念なり内容について十分には存じませんので、具体的には論及いたしかねますが、いま申しましたように、そうした人間の本質というところまで掘り下げ、そのうえにたって真の平和を建設し、よりよい社会を生みだしていくというものであるとすれば、まことに結構なものだと考えますし、人間の真の幸せのため、大いにこれを推進していただくことが望ましいと思います。

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