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日蓮大聖人・池田大作

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普賢菩薩勘発品(第二十八章) 広布の同…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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17  責任感から「智慧の嵐」が!
 池田 私は世界広宣流布を、一宗一派を広めようとか、そういう小さな考えでは、やっていません。地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど、必ず平和の方向へ行くのです。長い目で見ればわかります。もしか核戦争が起きれば、地球は破滅です。とくに、冷戦時代、第三次大戦が起きないとは、だれも保証できなかった。
 口はばったいような言い方になるが、私は「法華経」という「生命の宝塔」の教えを、世界に広めてきました。まだまだ緒についたばかりだが、流れはできあがった。戸田先生は「二百年先のために今、戦っている」と言われたが、私も同じ気持ちです。
 今の人類を、その子孫を、どう幸福と安穏の方向にもっていけるのか──。地球を背負っているような気持ちで、行動してきた。その「青任感」に立った時、頭の中に「智慧の嵐」が吹き荒れてきた。次々と先手を打つこともできたのです。
 遠藤 中国・ソ連(=現・ロシア)との友情、数々の対談集、民音、富士美術館、創価大学──その他、先生の「智慧」から生まれたものが、どれほど人類に貢献してきたか、計り知れません。
 池田 頭のいい悪いんじゃないんだよ。
 「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。法華経の一句一偈を忘れたら、普賢菩薩が「私が、必ず教えに現れます」と誓っていたでしよう。これは、このことです。智慧が出なかったら、普賢品は、法華経はウソになってしまう。
 「自分は真剣にやっているが、智慧が出ない」という人もいるかもしれない。しかし、たいていの場合、そういう人は、内心では自分は頭がいいと思っているのです。
 本当に頭が悪いと思ったら、「これでは皆に申しわけない」と思ったら、必死で題目を唱えるはずです。それで変わらないわけがない。「だれかがやるだろう」とか、「自分には関係ない」という一念が、奥底にあるのです。それがあるかぎり、「普賢菩薩の威神の力」は出てこない。「自分がやるんだ!」と信心で立ち上がった時、世間的な頭のよしあしを超えて、最高の「智慧」に適った行動になるのです。
18  「如」「去」は師弟不二の信心
 池田 戸田先生は生前、さまざまな指導をなされた。多くの人が「そうは言うけれども、現実は──」という聞き方をしていた。私は全部、「その通りです」という聞き方をしてきました。全部、「その通りです」と実践してきました。
 ある時は、先生は私に「どんな立場にあっても、学会を守れ」と一言おっしゃった。
 師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も「その通りに」やってきました。
 会長を勇退して二十年。名誉会長なのだから、本来ならば、責任はない立場かもしれない。しかし、役職は仮のものだ。信心は一生涯、自分自身の「心」の問題です。
 「どんな立場にあっても、学会を守れ」。師匠の一言を、私は「その通りに」全力で実行してきたつもりです。「その通り」に実行するから「師弟不二」なのです。これが法華経です。これが「如説修行」です。これが「如是我聞」の本義です。
 法華経の冒頭の「如」の一字は、師弟の不二を教えているのです。この「不二」の境地を目指しての行動があって初めて、自分自身の無明の闇から「去る」ことができる。
 煩悩の病から「去って」、仏界の太陽が赫々と昇るのです。それが法華経の最後の「去」の一字です。
 法華経二十八品は、全体を通して、師弟不二の行動を、炎のごとく呼びかけているのです。

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