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日蓮大聖人・池田大作

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観世音菩薩普門品(第二十五章) 「広宣…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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15  「経済にも倫理を」──アマーティア・セン氏
 斉藤 観音品ということで「現世利益」が話題になったわけですが、″現実生活上の価値″を否定する観念的な宗教観では、社会へ脈動はありません。かといって、安易な「ご利益信心」もまた、民衆の内面を開拓することはなく、「わが身を犠牲にしてでも、社会を変革していく」という力を与えることはできません。
 両者は、両極端のようでいて、ともに権力者にとって都合のよい宗教になっていると思います。
 池田 日本では、僧侶だけが「権力の奴隷」になってきたのではない。ほとんどの知識階層も、財界人も、民衆も、同じであった。
 本来は、権力者・指導者は「民衆の手足」です。民衆の手段です。民衆の公僕です。僕です。それが反対になっている。
 遠藤 口では「公僕」といっても、その「公」とは「民衆」のことではなく、「国家」とか「現体制」のことになってしまっている。民衆に仕えるのではなく、体制に仕えるのが「公僕」だという恐るべき錯覚です。
 須田 やはり「国家は手段であり、国民の幸福こそ目的なのだ」という民主主義の基本を、徹底的に、日本人の腹の底に叩きこまなければ、何も変わりませんね。
 池田 目に見えない精神的権威(宗教)をもたない人間は、目に見える権威(体制)に従いやすいものです。
 「社会へ向かっていく」「脈動していく」という創価の仏法の舞台は、政治だけではない。三十三身とあるように、社会のすべての領域にわたる。
 たとえば経済もそうです。
 ガンジーは「正義の経済学」を論じた。「拝金主義を教え込み、強者が弱者の犠牲の上に富を増やすことを容易にする経済学は、誤った、荒涼とした科学である。それは死を意味する。これに対し、真の経済学は、社会的正義を象徴し、弱者を等しく含む万人の幸福を促進する」(「私の宗教の目標」梅田徹訳、『私にとっての宗教』所収、新評論)
 「拝金主義」は強者を傲慢にし、弱者を卑屈にし、両者の魂をからっぽにする。
 貧しき人々をはじめとする「万人の幸福」をどうするか。そこに智慧をしぼるのが経済学の真髄です。「正義の経済学」です。「経世済民(世を治め、民を済う)」という「経済」の本義にかなう道です.
 斉藤 池田先生とともに今回、デリー大学の名誉博士になった方に、アマーティア・セン氏(英国ケンブリッジ大学教授)がいます。(一九九八年十二月十三日)
 教授も「正義の経済学」を提唱しています。
 池田 アジア人初のノーベル経済学賞を受けた方です。幼少期はタゴールの学園のある町で生まれ、タゴールが名づけ親だという。
 斉藤 セン教授は九歳の時に、ベンガルの大飢饉を体験しました。約三百万人が餓死。その体験から「貧しき人々を救う」ための経済学を志したといいます。「経済に倫理を」と主張されています。
 池田 すばらしいことです。
 牧口先生の価値論も「美・利・善」というように、「利」を価値体系の中に、きちんと位置づけておられる。「善(公共の利益)」に背く「利」は「悪」であり、反価値であることを、はっきりさせている。
 こういう「何のため」という価値観がなければ、経済活動も″金もうけのための金もうけ″″経済成長のための経済成長″というように、野放図に暴走してしまう危険がある。
 遠藤 バブル経済が、まさに典型でした。
 池田 その意味で、価値論は「正義の経済学」を志向しているといってよい。
 須田 今、日本では″景気の回復″だけが論じられています。まるで景気が回復しさえすれば、すべて問題は解決するかのように。もちろん、それも極めて大事です。しかし社会の根底の価値観が変わらないままで、いまだに経済至上主義の夢を追っているとしたら、こんな不毛なことはありません。
 斉藤 「第二の敗戦」と言われるバブル崩壊から″何も学んでいない″ことになります。
16  日蓮仏法は「誓願の仏法」
 池田 そういう「哲学なき非文化国家」日本を、心豊かなヒューマニズムの国に変えていくのが、広宣流布の運動です。
 ともあれ、日蓮仏法であっても「広宣流布」への戦いを忘れれば、これまでの利己主義の宗教と同じになってしまう。
 須田 宗門がその典型です。
 池田 広宣流布への不惜身命の「行動」があってこそ、わが小宇宙の生命が大宇宙と冥合し、祈りも叶うのです。と大聖人は「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と仰せだ。ならば、自分が法華経の「実践者」であるかどうかだけが問題になる。
 日蓮仏法は「誓願の仏法」です。自分が自分の立場で、御本尊に「私は、これだけ広宣流布を進めます! 断じて勝利します!」と誓願することです。その「誓願の祈り」が出発点です。
 観音品には、観世音菩薩の由来について述べたなかに「弘誓の深きこと海の如し」(法華経六三四ページ)とある。(広宣流布しようという誓いは海のように深い)
 その結果、観音は「福聚の海無量なり」(法華経六三八ページ)という大境涯を得たのです。(無量のの福が聚まった海のごとき境涯)
 日蓮大聖人は、この経文について「依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」と言われている。依正──周囲の境涯も自分自身も、無量の「福徳」と「智慧」にあふれてくるのだと。
 人間には「智者タイプ」の人と、「福者タイプ」の人がいる。それはそれで個性なのだが、智慧があっても福運がなければ、努力は実らず、幸福な人生は創れない。
 福運があっても、智慧がなければ、多くの人に信頼されることはむずかしいし、多くの人々を救っていくこともできない。両方、兼ね備えた人生が最高です。
 広宣流布という人間性の真髄の軌道を生ききるときに、そういう「無上道の人生」になっていくのです。ゆえに一歩も退かず、押して押して押しきっていくことだ。遠慮してはならない。
 全幹部が一兵卒になって、コマネズミのように動いて動いて、獅子王のごとく語って語って、魂魄をとどめた広布勝利の歴史をつくっていくことだ。その分だけ、自分自身の三世永遠の旅路が黄金に輝いていくのです。

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