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日蓮大聖人・池田大作

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薬王菩薩本事品(第二十三章) 命を燃や…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  池田 その通りだ。「生死」といっても、宇宙生命の変化相です。仏の命の現れです。だから「生死」を嫌うことは、仏の命を嫌うことに通じる。また生死の苦しみに溺れることも、仏という大生命に遊戯する身とはいえない。
 生の苦しみも、信心を強める糧にする。死の苦しみも信心を強める糧にする。それが生死即涅槃です。とはいえ、彼女は、若き身でつらかったでしょう。女子部の人材グループの一員になった彼女を、私はたびたび励ました。一緒に皆で農場に行って、スイカやトウモロコシを食べたことも懐かしい。
 彼女は職場でも、女子部の活動でも、もちまえの「明るさ」と「粘り強さ」で、目を見張るような結果を出していった。
 そして入会からちょうど十年後に、高等部時代からの「夢」をつかみとって、憧れのスペインに留学できたのです。
 (着いて二週間で、スペインで初の支部が結成され、支部結成式で女子部長に任命された)
 彼女は駆けた。草創期のスペインの大地で「カトリックの大地に題目をしみこませるんだ!」と言って、いつも題目を唱えていた。座談会に行くのに、車で往復十時間というのも、しばしば。会合から戻ると、明け方まで、御書や「大白蓮華」を一文一文、翻訳していった。
 彼女は言っていたという。「苦労だなんて、とんでもありません。一人のスペイン人が立ち上がるたびに喜びに変わります。盤石な日本の創価学会しか知らなかった私には、大変というよりも、草創の苦労を体験できる喜びのほうが大きいのです」と。
 そして無我夢中で二年がたった。彼女に再び「試練の弾丸」が襲った。左ひざに、しこりのようなものがあり、日本に帰国して検査したら、悪性の腫瘍であった。「左足のつけ根から切断しないと、生命の保証はできない」と。
 世界中の時間が止まったようなショックだった。その時、お母さんの顔が浮かんだ。近隣の人も驚くような美しい成仏の相で亡くなったお母さんの遺言が、耳もとに蘇った。「あなたには、御本尊様があるじゃないの。あなたのことは、全部、御本尊様にお願いしたから、まったく心配はないよ……」と。
 「そうだ、この時のために、母が命をかけて私に信心を教えてくれたんじゃないか!」
 彼女は意を決して、日本で手術を受けた。足の切断はまぬかれたが、五十針も縫う大手術。主治医からは「一生、歩くことは不可能」と告げられた。
 しかし彼女は「スペインの同志のために、必ず、もう一度、歩いてみせる!」と決めたのです。そして病魔と戦った。
 (石のように、まったく動かなかった左足だったが、手術から数十日後、ぴくっと親指が動いた。「あっ、動いた!」。そして何と手術で、えぐり取られたひざの肉が、少しずつ盛り上がってきた。リハビリにも執念で取り組み、手術から七ヵ月後、医師の「君の体は医学では説明できない」という言葉に送られて、自分の足で歩いて退院した)
 すさまじい闘争だった。経済的にも、ぎりぎりのところにいた。それでも彼女は「広宣流布をやるんだ」と命を燃やしていた。そして再び、自分の足で、スペインの大地に立ったのです。
 時に、昭和54年(一九七九年)の四月。私が第三代会長の勇退を発表した月です。彼女は、私の正義を証明するためにも負けてなるものかと頑張ったのだという。その心を私は忘れません。
 体力的・金銭的問題もあって、日本に帰ったが、それからも、あちらで折伏があると聞けば、飛んで行って体験を語り、部員さんが悩んでいると聞けば、駆けつけて激励した。国際部の翻訳グループとしても頑張っていた。
 個人折伏も十人以上。同じ、足の腫瘍を患っていた少女も激励した。少女は感激し、やがて創価大学に進学しました。
 須田 聞けば聞くほど、「なまはんかな信心ではいけない」と、粛然たる気持ちになります。
13  「何と美しき顔だろう!」
 池田 「いつ倒れるか。否、いつ倒れようとも、悔いのない闘争を続けるのみだ」との決心で走り続けた。
 彼女に私は神奈川文化会館で会った。(八〇年十二月十四日)
 翻訳グループの一員として、皆と一緒に「お月さまの願い」を合唱してくれた。
 (=歌い終わるや、彼女は一首の和歌を名誉会長に差し出した。「病魔破し 広布に走らん 師のもとに 今日の集いを 胸にきざみて」。名誉会長は彼女の目を見つめて「健康になるんだよ!」「長生きするんだよ!」と激励した)
 パリの会館にも、彼女は来ていた。皆で記念撮影も行った。(八一年六月十四日)
 彼女が亡くなったのは、その一年後だった。(八二年六月二十六日)
 がんは肺に転移していた。薬の副作用で、体はみるみる衰弱していった。それでも彼女は題目を唱え続けた。日本とスペインの同志のことを祈り続けた。
 (末期状態になっても、深呼吸しては「ナンー」、また深呼吸しては「ミョウー」……と唱題した。初めてスペインに渡ってから二回目の「一千万遍」に挑戦し、五年間で達成した。亡くなるときは、三回目の「一千万遍」に挑戦していた)
 「生きよう!」という壮絶なまでの彼女の執念に、看護婦さんたちも感動したという。お見舞いに来た人が、反対に激励されて帰った。我とわが身に炎を点じて、人々に光を送ったのです。
 八ヵ月の入院闘争の末、彼女は三十二歳で、次の生へと旅立っていった。亡くなったその顔を見て、皆があっと驚いた。
 「ものすごい美しさでした。こんなにきれいな姿を、生きている時も見たことがありません」
 「お化粧も必要ないくらいで、うらやましかった」
 「手もやわらかく、あたたかく、顔もふっくらしていた」と。
 (もともと色黒だったが、死の前は、やせ細って、顔色もひどく悪かった。「しかし、まっ白に変わっていました。この落差。本当に成仏の相とはこれかと思いました」と証言されている。火葬場の人に「こんなきれいな人は見たことないよ」「焼くのは、もったいない」と言われた)
 少し笑みをたたえて、半眼半口。御書に仰せの通りの成仏の姿だった。
 葬儀には全国から数百人もの人が訪れ、近所の人から「どういう人が亡くなったんですか」と聞かれた。
 大聖人は、成仏した人の死を「千仏が迎えに来て手を取る」と仰せになっておられる。(「生死一大事血脈抄」、御書一三三七ページ、趣意)
 その一つの表れが、これだけ大勢の人が彼女の死を悼んで、題目を唱えてくれたということです。大勢の人を真心から面倒みた分だけ、自分が三世永遠に守られるのです。しかも彼女の友人は「本当に幸せだったと思う」と言っている。
 「天涯孤独、そして病死──でも、彼女を知る人は、だれも『かわいそう』とは思わないんです。『立派だった』『すべて、やりきった』。そう心から思います。だから私たちは少しも悲しくないんです。彼女は、もう、スペインにいるでしょう。スペインに生まれて、広宣流布に戦っているだろうと思います」と。
 斉藤 薬王品ですね。不老不死と言っても、人生の「長さ」だけではありませんね。
14  不老不死──生死を超えて使命のために
 池田 彼女の「身」は病んでいたが、「心」は太陽のごとく輝いていた。「生命」は「健康」そのものであった。
 私は翌年(一九八三年)、スペインを訪問した時、彼女をたたえて、初の「名誉ヨーロッパ女子部長」の称号を贈りました。
 「健康」とは何か。その結論は「菩薩の生命」です。人のために戦い続ける一念──それが真の「健康」だと私は思う。ただ″健康食品″を食べ、自分のことだけ考えて、安楽な暮らしを願う──それが健康だとは思わない。
 「健康」を象徴する薬王は、信念に「殉教」した菩薩であった。「戦う生命」それが「健康な生命」です。
 私もお会いしたが、ルネ・デュボス博士(世界的医学者)は言っておられた。「心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない」(『健康という幻想』田多井吉之助訳、紀伊国屋書店)と。
 (さらに「地球は想いの場所ではない。人間は、必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれているのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである」〈同前〉と)
 ストレスや悩みをも、生命力に転じていく。それが「毒を薬に変える(変毒為薬)」妙法です。「大いに楽しく生きよう」という仏法の境涯の実現です。
 そのためには、戦いです。「生死を超えて、汝の為すべきことを為せ!」です。この使命感の前には、生も死もない。この献身の前には、死苦さえが前進の力に変わる。
 大聖人は、本門の流通分は、寿量品・方便品の″修行の仕方″を説いていると仰せだ。(御書一四九九ページ)
 薬王品も、まさに「末法広宣流布の戦士よ! 薬王菩薩のごとく、命を燃やせ!」と教えているのではないだろうか。そういう青年が陸続と現れたとき、創価学会全体が永遠化される。「不老不死の教団」になっていくのです。
 そうなって初めて、永遠の未来にわたって、全人類に「癒しの光明」を燦然と送り続けることができるのです。

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