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日蓮大聖人・池田大作

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嘱累品(第二十二章) 虚空会──「付嘱…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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14  斉藤 数年前、ある学者が、日本が行き詰まっている原因を、こう論じていました。(経済学者の佐和隆光氏、『世界』九五年十一月号)
 「一九四五年の敗戦に至るまでは、天皇制が『宗教』の役割を果たしていた。ここでいう宗教とは、国民的アイデンティティーと社会規範の源泉を意味する」
 戦後、天皇制に代わって「宗教」の役割担ったのは「マルクス主義ないしその亜流」。
 六〇年代の高度成長時代に「新しい『宗教』となったのが、欧米先進国に『追いつき追い越せ』の国民的願望にほかならない」。
 この願望は、八〇年代から九〇年代に、経済大国となって達成され、「『追いつき追い越せ』教」の役目は終わりました。そこで「もう一つの『宗教』を見いださない限り、この国は『規範なき社会』とならざるを得まい」──こういう論です。
 遠藤 たしかに「規範なき社会」です。社会の止め金がはずれて、何もかも、ばらばらになってしまった感じです。何が起こっても不思議ではない不気味ささえ感じます。
 池田 無宗教国家・日本の悲劇です。だからこそ、私たちの使命は大きい。
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」です。
 「蔵の財」──経済のことばかりいじくっても、経済そのものだって、良くはならない。かりに良くなっても、社会は幸福にならない。
 人間です。心です。心がすべてを動かす。
 如来は「大施主」とあったが、妙法の弘教とは最高の「心の財」を施すことです。
 福運と智慧にあふれた「心の財」があれば、そこから、本当に豊かな「身の財」「蔵の財」も備わってくるのです。
 斉藤 二十一世紀に向かって、一番大切なことだと思います。
15  池田 人生、最後に何が残るのか。
 思い出です。生命に刻まれた思い出が残る。
 モスクワで会った作家のショーロホフ氏が、こんなことを言われていた。
 (=ノーベル文学賞作家。代表作『静かなドン』『人間の運命』。名誉会長との対話は、一九七四年〈昭和四十九年〉九月)
 「長い人生になると、いちばん苦しかったことは、思い出しにくくなります。長くなると、いろんな出来事の色彩がうすくなり、一番うれしかったことも、一番悲しかったことも、一切合切、過ぎ去っていきます」
 そして一呼吸おいて、こう言って微笑まれた。「私の言うことが真実だということは、池田さんが七十歳になった時にわかるでしよう」。味わい深い言葉です。
 一切は過ぎ去る。天にも昇らんほどの喜びも、死のうかと思うほどの苦しみも、過ぎてしまえば、夢のようなものです。そのうえで、私は「生命を完全燃焼させた思い出は、永遠に消えない」と言っておきたい。なかんずく広宣流布に燃やしきった思い出は永遠です。
 この世に生まれて、一体、何人の人を幸福にしたか。何人の人に「あなたのおかげで私は救われた」と言われる貢献ができたか。
 人生、最後に残るのは、最後の生命を飾るのは、それではないだろうか。
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」です。
 それが冒頭に話した戸田先生の「今日、死んだらどうするか」という思索の結論と言えるのではないだろうか。

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