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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 「文底」仏法…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  周総理「皆がいるから私もある」
 池田 本当の人間性が、本当の仏法です。それ以外にない。あの周恩来総理は、「部落解放同盟」の代表が中国を訪問されたとき(一九六二年)、何と言われたか。団長が、多忙な総理が時間を割いてくれたことに感謝を述べると、こう言われたのです。
 「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来ているのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(『人権は世界を動かす──上杉佐一郎対談集』解放出版社)
 また総理は、あの長征のとき、自分の食糧まで兵士に分け与えてしまった。これは、日中友好の先達のお一人が、総理の護衛兵の回顧談として紹介されたことです。
 それによると、総理の一団は、四川省(スーチョワン)の湿地帯を進まねばならなかった。そこを通過するまで、人家もなく、何日も食べるものもない。非常食として「牛肉を煮て乾して、それをほどいたものを一袋」と、「麦を炒って粉にしたものを一袋」持っていった。どこでも、水かお湯に浸せば食べられるものです。
 一団は皆、食べられる野草などを見つけながら、しのいだが、そのうち栄養失調になってきた。すると総理は、牛肉をあげなさい、と自分の分をみんなに分けてしまった。
 状況はさらに過酷になり、夜は元気だった同志が、翌朝には冷たくなっている、という厳しさだった。総理は護衛兵に、麦焦がしをあげなさいと命じた。
 ところが、護衛兵は皆に与えようとしない。「なぜ、やらないんだ」と総理が責めると、護衛兵は「これをやってしまったら、あなたは何を食べるんですか」と抗議した。
 総理は護衛兵に近寄って、諭すように言った。「みんながおるから私もあるんだ。一人でも生き残るものが多ければ、それで革命の大義ができるんだ。是非やれ」。護衛兵はやむなく皆に与えたが、数日たって湿地帯を抜け、やっと人里にたどり着いたという。(伊藤武雄・岡崎嘉平太・松本重治『われらの生涯のなかの中国──六十年の回顧』阪谷芳直・載國煇編、みすず書房。同書の岡崎氏の発言を引用・参照)
 これが本当の指導者です。本当の同志愛です。同志の絆は、親子、兄弟よりも尊い。「血のつながり」ではなく、目的を同じくする「正義のつながり」です。これが人間の人間たるゆえんです。
 指導者は″皆がいるから自分がいる″のです。自分中心ではなく、だれよりも率先して、目的のために、わが身を捧げていくから指導者なのです。それが反対に、自分のために民衆を利用する指導者が多すぎる。そういう悪と戦うために創価学会はある。
 そういう「民衆の敵」と戦わずして、成仏はない。仏敵という「一凶」と戦わずして、広宣流布はない。
 「万事をさしおいて謗法を責むべし」と、大聖人は厳しく言われている。
10  斉藤 とくに「法華経の行者」を誹謗する罪は、あまりにも大きい。
 法華経には釈尊滅後の「法華経の行者」を謗ずる罪は、仏を一劫の間、誹謗し続ける罪よりも大きいと説かれています。″凡夫″である行者を誹る罪のほうが、″仏″を誹る罪よりも大きい。ちよつと聞くと不思議です。
 一切諸仏を仏にした「根源」の妙法を、そのまま弘めるのが「末法の法華経の行者」なのだということがわからないと、理解できないことです。
 池田 その通りです。もちろん、別しては日蓮大聖人の御ことであるが、大聖人に連なる私どもも、最高に尊貴な人生を生きているのです。
 戸田先生は言われた。
 「必ずやこのとき、大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士が現れねばならぬ、と余は断ずるのである。この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従こしょう(=お供)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである」(『戸田城聖全集』3)
 人間として生まれて、これほどの誇らしい「最高善」の人生はない。
 遠藤 私たち学会員は、皆、すごい使命をもって生まれたのですね、神力品のなかで、上行菩薩の活躍の姿をこう描いています。「太陽と月の光明が、もろもろの闇を除くことができるように、この人は世間の中で行動して、衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必ず妙法に到達させることができる」(法華経五七五ページ、通解)
 今、日本も、世界も、先が見えないような闇が覆っています。だからこそ、私たちの出番だと思います。
 池田 そうです。闇が深ければ深いほど、「太陽の仏法」が光り輝くのです。
 須田 チャンスですね。
 池田 大勢の人々を救っていくチャンスです。
 「畢竟して一乗に住せしめん(最後に必ず妙法に到達させることができる)」というのは、「広宣流布」のことです。(「御義口伝」に「畢竟とは広宣流布なり」と)
 そのために私どもは、願って、この世に生まれてきた。その今世の使命に向かって、生きて生きて、生き抜くのです。その「勇猛精進」の心が輝いていれば、不老不死の生命力がわく。
 「勇猛」とは、最高の勇気です。「精」とは無雑。精米というように、純白な、汚れない信心の心です。「進」とは無間。間断なき行動です。たゆむことなく前進また前進することです。「精進」です。「南無妙法蓮華経は精進行なり」です。間断なく戦い続ける、その信心に「如来神力」は湧現する。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」です。
 ″億劫の辛労″です。一年や二年分の辛労ではない。
 心をくだき、身を粉にして、広布のために苦労することです。「世間に行じて」です。「社会の中で行動する」のが神力品の付嘱を受けた地涌の菩薩です。
 日蓮大聖人直結の「広宣流布の組織」で、気どらず、飾らず、苦労に苦労を重ねて生き抜いている人。その人こそ、いかなる有名人よりも尊き、末法における″如来の使″なのです。また″如来″なのです。

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