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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 上行菩薩への…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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11  「毎日」が「久遠元初」
 池田 もちろん、その通りです。
 須田 そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。
 池田 そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。
 時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実──無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。
 大聖人は「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」と仰せだ。
 「はたらかさず」とは、途中からできたのではない、本有ということです。「つくろわず」とは、三十二相八十種好を具足していない、凡夫のありのままということです。
 本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。
 私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。
 斉藤 それこそ「本因妙」ですね。
 池田 だから「今」が一番大事なのです。「過去」を振り向いではいけない。振り向く必要もない。未来への希望を大いに燃やして、この「今」に全力を注いで生きる。その人が、人生の賢者です。
 上行菩薩への付嘱──末法広宣流布を託したのです。だから「久遠の妙法」の広宣流布へ本気で立ち上がれば、そのとき、生命に「久遠元初の夜明け」が訪れる。
 戸田先生はいつも「広宣流布は戸田がやる」と言われていた。「私がやる」と。「人には頼まない」と。そして青年にも同じ大信心に立てと願われていた。
 ある時は、二十人ぐらいの青年の集いで、突然、力強く、「広宣流布はおれがやる」と叫ばれた。そして「君たちも一人ずつ言いたまえ」と、一人一人を指さされた。
 皆、夢中で「広宣流布は私の手でやります」と申し上げた。なかには弱々しい声もあった。何だろうという驚いたような声もあった。後に退転した人間もいた。
 ただ戸田先生は、青年たちに、ご自分と同じ決意に立たせたかったのです。戸田先生の厳愛です。今、私も青年部の諸君に対して、まったく同じ気持ちです。
 ともあれ、「上行菩薩」論は、非常にむずかしいが、法華経の要の中の要だから、頑張って、もう少し、探究を続けよう。
12  斉藤 はい。確認しますと、法華経では、「久遠実成の仏」から「上行菩薩」へと結要付嘱されますが、その渡された法とは、「法華経二十八品」ではなく、文底の「南無妙法蓮華経」ということになります。
 池田 その通りだが、「渡された」というところが、誤解を招きやすい。上行菩薩は本来、もともと、南無妙法蓮華経の当体です。
 もともと持っておられる法であるが、末法に南無妙法蓮華経を弘めていく資格というか、立場をたしかに認められているという「証拠」を示す儀式なのです。
 遠藤 そうしますと……また「家督相続」の譬えで恐縮ですが(笑い)、親から財産をたしかに受け渡されましたよという「証文」のようなものでしょうか。
 池田 そう言ってもよいと思う。神力品の文は「証文」です。「証文」であるということは、妙法そのものから見れば「迹」です。
 たとえば、一千万円を親から受けついだとする。それも、一つの「付嘱」です。この一千万円それ自体は「本」です。受け継いだという「証文」は「迹(影)」です。「本」と「迹」には、天地の差がある。
 百六箇抄には、こう仰せだ.(「本門付属の本迹」)
 「久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり、久遠元初の結要付嘱は日蓮今日寿量の付属と同意なり」むずかしいが、要するに、久遠以来、名字即の凡夫のまま日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の本法を所持しておられる。
 それが「本」。それから見れば、法華経の経文上の上行菩薩等の儀式は「迹」になる。経文は、大聖人が事実として妙法を広宣流布されるための「予証(あらかじめ出す証拠)」であり「文証」です。
 「南無妙法蓮華経如来」が、法華経二十八品というスクリーンに「影」を映した結果、久遠実成の釈尊(仏界)や上行菩薩(九界)の姿になったのです。だから、どこまでも妙法が「本」、上行菩薩は「迹」です。
13  「人間」以外に「仏」はない
 遠藤 そうしますと、付嘱の儀式は、「仏界から九界へ」の付嘱となりますが、これは何を意味するのでしょうか。
 池田 そこに、「凡夫こそ本仏」という意義が含まれているのです。
 斉藤 前の項(地涌の菩薩への「付嘱」)で、諸法実相抄の文(「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」)を引いて、強調してくださったところですね。
 池田 これについては、また論じたいが、今回、一つだけ言っておくと、三十二相の「完成された仏」と言っても、冒頭に引いた「ユートピア」のように、近づけば、近づくほど、その分、遠ざかる理想像だということです。
 「完全なる仏」というのは想定はできるが、現実には「目標」にすぎない。つまり、凡夫という「九界」を離れた「仏」は実在しない。三十二相の″仏様らしい″仏は、実在しないのです。仏とは現実には「菩薩」の姿以外にない。「菩薩仏」以外の仏はないのです。
 「因行のなかに果徳がある」すなわち「因果倶時」が、宇宙の根本仏の成仏のすがたです。本仏の成仏が「因果倶時」であるゆえに、それ以外の成仏はありえないのです。
 大聖人は、これを「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せになっている。
 斉藤 そうしますと、何のために、そういう、三十二相の「完全なる仏」が説かれたのか──。つまり、ユートビアが、人間を「前進させるため」にあったように、人間を修行させるためでしようか。
 池田 修行させるためです。すばらしい荘厳な仏身を説き、皆が憧れることによって、その「仏果」を目指して、修行しようという気持ちになる。
 「前進」させ「向上」させるために、三十二相の色相荘厳の仏を説いたのです。
 もちろん、実在しないといっても、それは凡夫が目の当たりに拝することはできないという意味です。生命には厳然と「仏界」がある。しかし、仏界は「九界」を離れては現れないのです。伝教大師が言った通り、「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏なり」(『守護国界章』)です。
 須田 「有為」とは「無作」ではない、つくろっているということですね。報仏は報身仏。修行の報いとしての仏身です。
 「無作の三身」以外の、つくろった色相荘厳の仏とは「夢の中」の権の仏果である──。
 遠藤 「無作の三身」だけが「実仏」である。「覚前」の実仏は、歴劫修行の結果、覚りを開いて成仏したのではなく、もともと本有常住の仏なのです。
 斉藤 御書(五六〇ページ等)にも引かれていますし、何度も読んだ一文です。しかし、今は新鮮な感じがします。
 池田 立派そうな格好をしている仏は「夢の中」の存在だと言うのです。実在しないのです。本当は、ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。
 「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、にせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。
 それを教えているのが、法華経であり、神力品の「上行菩薩への付嘱」には、そういう「人間主義の仏法」への転換の意義が含まれているのです。
 「日蓮と同意ならば」と大聖人が仰せのように、広宣流布を目指して進むわが同志こそ、現代における「仏」です。
 それ以外に、「仏」はない。ゆえに学会員を己のために利用する仏罰は限りなく大きい。学会員のために、学会員の幸福を目的として尽くしていくときに、無量の功徳が花開いていくのです。

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