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日蓮大聖人・池田大作

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常不軽菩薩品(第二十章) 「増上慢」の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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14  善が勝ってこそ善悪不二
 池田 「不軽」の心については、まだまだ、あらゆる角度から深く拝さなければならない。たとえば、「増上慢の四衆」と「不軽」との関係にしても、大聖人は、こう仰せになっている。
 「不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、此に立つて礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり
 たしかに不軽菩薩と悪人は対極にある。しかし、どちらも妙法の当体である。同じ「人間」である。悪人にも善の仏界があるし、善人にも悪の生命がある。
 ゆえに不軽菩薩は迫害されても迫害されても、広宣流布へ立ち向かっていった。悪人たちの「眠れる仏性」を信じて、「毒鼓の縁」を結び、仏縁を結んでいったのです。
 (「毒鼓の縁」とは「逆縁」とも言い、法華経を説き聞かせれば、たとえ、その時は信ずることなく、誹謗しようとも、″正法を聞いた″ことが「縁」となり、必ず後に成仏の道に入ること。
 毒鼓とは毒を塗った太鼓のことで、この音を耳にした者は、聞くことを望むと望まないとにかかわらず、皆、死すとされた。死ぬとは「煩悩が死ぬ」ことを譬え、逆縁の功徳を教えている)
 須田 仏縁を結ぶことが、下種仏法では大切なわけですね。大聖人は「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」と仰せです。「強いて」と仰せです。
 斉藤 妙法を説き、耳に触れさせれば、相手の生命の奥底では、必ず仏性が触発されている。それで反発するか、発心するかは、人それぞれですが、必ず「眠つていた仏性」が刺激されているのですね。
 池田 そう。「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」です。
 遠藤 そこを読んでみます。
 「自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり
 (〈不軽菩薩の礼拝は〉自他不二の礼拝である。なぜかというと、不軽菩薩が四衆を礼拝すれば、増上慢の四衆の仏性もまた同時に不軽菩薩を礼拝するのである。これはちようど「鏡に向かって礼拝する時、そこに映っている自分の姿もまた自分を礼拝する」のと同じである)
 池田 一般論で言っても、尊敬は尊敬を生む。軽蔑は軽蔑を生む。
 自分が変われば、相手も変わる。人材育成にしても、相手を「必ず立派な人材になる人だ」と、まず信じて、尊敬してこそ成功する。自分の子分のような気持ちで接して、人材が育つわけがない。
 同志を心から尊敬できる人が偉いのです。不軽菩薩は信仰していない相手すら、「仏界」があるのだからと礼拝した。いわんや信仰している同志を粗略に扱う人がいれば、必ず罰を受けるでしよう。
15  斉藤 幹部は、よくよく振る舞いに注意しなければいけませんね。人を無礼に待たせたり、威張った態度では、法華経ではありません。
 池田 相手の態度がどうあれ、不軽菩薩は、ただひとすじに信念を貫いた。そして勝った。表面だけ見れば、「常にバカにしていた」有力者たちのほうが勝っていたように見えるかもしれない。しかし、じつは「常にバカにされていた」不軽菩薩が勝っていたのです。境涯には天地雲泥の差があつたのです。
 思えば、大聖人は、あの流罪の地・佐渡で、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と言われた。
 何と崇高な御言葉か。幾万年の人類史の頭上、その天空高くから、雷鳴のごとく、天の交響曲のごとく、鳴り響き、とどろきわたる一言です。
 斉藤 大聖人のその深きお心も知らず、迫害に狂奔していた彼らの心は、本当に無慙です。今もいます。そういう人間について、大聖人は″長らく地獄に堕ちて苦しんで、そのあとまた日蓮に会って救われるのだ″と言われています。(御書七六六ページ、一一二三ページ等)
 池田 「善悪不二」とは、悪をそのまま認めることではない。悪と断じて戦い、打ち破って、悪をも善の味方にしていくことです。
 仏法は勝負だ。負けたのでは、現実には、善悪不二ではなく、善が悪の奴隷になってしまう。断じて勝ってこそ、悪知識をも善知識にしていけるのです。
 遠藤 大聖人は「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」と言われています。
 大聖人を流罪した相模守(北条時宗)こそ「善知識」である。そして迫害の中心者・平左衛門尉こそ、釈尊の「悪知識即善知識」であった提婆達多と同じである、と。
 池田 法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(授記品、法華経二五七ページ)とある。敵をも味方に変えてこそ広宣流布です。
 そのためには、自覚した人間が猛然と「一人立つ」以外にない。そして民衆が鉄の団結で進む以外にない。
 この章の冒頭、桜の花の話をしたが、国家主義という転倒の思想によつて、何百万、何千万という尊き、かけがえのない命が散らされた。
 その暴虐を「やめろ!」と叫んだのが牧口先生、戸田先生です。それは最高の″愛国者″の行動であった。
 そして「人間宗」というべき法華経への殉教であつた。国家のためでなく、人間のために命を捨てたのです。この歴史を、両眼をしっかと開いて見つめなければならない。そして今こそ、新たな国家主義、権力主義の動きに対して、立ち上がるべきです。
 それこそが「不軽品」を読むことになるのです。

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