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日蓮大聖人・池田大作

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随喜功徳品(第十八章) 妙法を伝える「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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10  ″御書の通り″に生きる喜び!
 斉藤 広島で被爆した松田文姑さんの体験を聞きました。
 入会は昭和三十一年(一九五六年)。戸田先生の原水爆禁止宣言を直接聞いて、その感動から、弘教に邁進したそうです。
 貧血、リューマチ、胃腸障害など七つあった後遺症も、活動の中で一つ一つ克服。広布のリーダーとして、思う存分に戦えるまでに健康になっておられます。
 十五年ほど前のことです。六十歳の時、御書を全編拝読したことがないことに気がついた。大聖人からいただいたお手紙なのに、まっ白のところがあっでは申し訳ない。そこで、全編の拝読に挑戦し、最初は五年かかったようですが、だんだん速度もついて、今は五回目に取り組んでおられるそうです。
 読了で実感した功徳は、グチが出なくなったことです。「くたびれた」「疲れた」とは言わなくなった。御書のどこを読んでも、大聖人がそうしたことを言われていない。そして、グチがなくなった分、たくましい楽観主義に変わったといいます。
 今は、″ともすると悲観主義に陥りやすい国土世間″を変えていこうと、ますます燃えているとうかがいました。
 池田 私も、よく存じ上げています。すばらしいね。こうした草創の英雄が無数にいらっしゃることが学会の誇りです。
 大聖人の仰せの通りにやろう! これが「随喜」の信心です。学会は「御書の通りに」を根本精神に戦ってきた。ゆえに学会だけに本当の歓喜があり、功徳があるのです。
 要するに、広布に生きる喜びにまさる功徳はありません。弘教以上の歓喜はない。自分の対話をきっかけとして、他人がどんどん幸せになっていく姿を見る。これ以上の喜びはありません。そして、人の幸福を喜べば、ますます自身の生命が浄化されていく。
 ゆえに折伏は傲慢ではなく、人間として生まれて、ひとことでも法を説ける喜びに燃えて行じていくことです。そして、大切なことは、折伏したときに、相手が聞くか、聞かないかは別問題だということです。
 随喜品には、「法華経の話があるから」と人を誘うこと自体が、すでに功徳を積んでいるのだと説いである。
 会場で、座をつめて座らせてあげるだけで功徳があると説かれている。いわんや、自分から人に仏法の話をしてあげるのは、莫大な功徳を積んでいるのです。
 「発心下種」(妙法を説いて相手が発心した場合)と「聞法下種」(相手が法は聞いたが発心しなかった場合)の功徳は同じなのです。
 だから、戸田先生は、何人もの人が折伏してもなかなか入会しない人について、″それだけ多くの人に「聞法下種」させて、多くの功徳を与えている人なんだ″と言っておられた(笑い)。
11  仏法を語ること自体か大功徳
 遠藤 たとえば、ある人が七人目の人の話を聞いて、やっと入会した──こういう場合は、七人目の人にだけではなく、それまで折伏してきた、はじめの六人の人にも絶大な功徳があるわけですね。
 池田 その通りです。相手がどうかではなく、こちらが妙法をたたえ、聞かせていけば、それだけで大功徳になる。そう自覚していけば、またまた「歓喜」です。
 そして、弘教を実践している人を、心からたたえていくことです。最高に尊貴なる「仏の使い」なのだから。
 そうすれば、自他ともに歓喜がわくゆえに、さらに広宣流布が進むのです。
 ともあれ、御本尊が大好き、唱題が大好き、学会活動が大好きという強盛な「信心」にこそ「随喜功徳」が無量にあふれてくるのです。

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