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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 永遠の生命とは…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  日寛上人の臨終の御姿
 遠藤 日寛上人の臨終といえば、有名なのは、おソバですね(笑い)。亡くなられたのは享保十一年(一七二六年)八月十九日の早朝。御年六十二歳でした。
 日寛上人は御自身の死期を悟っておられたようです。亡くなる一両日前に、法衣を着けられ、病床から起きて駕龍に乗り、塔中をお別れの暇ごいで回られます。最初は本堂で読経・唱題され、墓前に行かれ、また隠尊の法主や新法主のところを回り、門前町経由で大坊に戻られます。沿道では、人々が別れを惜しんだといわれています。
 須田 戻られるや、大工に葬式の用意をさせて、棺桶の蓋にご自分で一偈一首をしたためます。
 斉藤 悠々たる御境涯ですね。
 須田 八月十八日の深夜、御本尊をかけ奉り、周囲の人に臨終に際しての唱題などの注意をされ、好物のソバを作るよう命じられます。そして、七箸、これを召し上がられ、にっこり微笑まれて、「ああ面白や、寂光の都は」と述べられます。その後、うがいをされて御本尊に向かい合掌し、十九日の辰の刻(午前八時ごろ)、半眼半口で眠るように亡くなられています。
 斉藤 くわしい記録が残るほど、当時の人たちも感動したのでしょうね。
 池田 ソバを食べられたのは、約束を果たされたのです。それは「鳩摩羅什は『死後、自分の舌が焼けなければ、自分が説いたことが真実であったと知れ』と言って死に、その通りになった。そこで私(日寛上人)はふだんからソバが好きだから、臨終の時に、ソバを食べ、一声、大いに笑って題目を唱えて死ぬことにしよう。もしも、この通りになれば、私が説いたことを一文一句も疑ってはならない」と語られていた。
 亡くなられる半年前です。(亨保十一年二月)
 遠藤 それが、その通りの臨終だったわけですね。
 池田 また、この年の六月、日寛上人はこう語られている。
 「今、大石寺は栄えている。題目を唱える人が増えている。まさに三類の強敵が起きるであろう。私は、この春以来、災いをはらうことを祈願した。ゆえに仏天があわれんで、私自身の病魔をもって法敵にかえられたのである。これこそ『転重軽受』であるから、何も憂うることはない」と。
 遠藤 金沢法難もこの年の春です。
13  生まれたい時に生まれたい場所へ
 池田 広布のリーダーの厳然たる御姿です。その責任感があればこそ、先ほどの達観した臨終の御姿があったのだと思う。ともあれ「仏界の生死」にあっては、「死」は決して恐れるべきものではない。きょう寝て、あすの朝、起きる。それと同じです。死んだと思ったら、すぐに来世なのです(笑い)。
 須田 そう言われると安心します(笑い)。
 池田 しかも自分が生まれたいところに、生まれたい時に、生まれたい姿で、生まれてくる。地球とは限らない。「もう地球は、あきた」(笑い)という人は、他の星に行って働くのも自由です。
 御書には「不思議・自在の業」とある。「総勘文抄」にも「すぐに生まれてくる」とあったでしょう。
 遠藤 はい。「上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず
 (最高の成仏を遂げ、たちまちのうちに九界の生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切の有情の身の中に入れて、内からは仏道の心をおこし、外からは仏道に入らせようと導き、内外が相呼応して、因〈内因〉と縁〈外因〉を和合させて、自在にして生命に通達した慈悲の力を施し、広く衆生を利益することは自由自在であろう)
 斉藤 これこそ仏界の生死ですね。
 遠藤 すぐに生まれてこないで、「もう少し、ゆっくり休みたい」という人もいると思うのですが(笑い)。
 池田 そういう人は、ゆっくり休んでいいのです(笑い)。また、休むのが当然でしょう。死は「休息」です。宇宙生命の癒しの海に抱かれて、疲れた生命を充電するのです。そしてまた「生」という生命力の爆発へと向かうのです。
 ただ「仏界の生死」の場合、生命の基底部が「慈悲」そのものになっている。ゆえに、またすぐに人々を救うために生まれてこようとするのです。
 また、この「須臾の間に」というのは、いわゆる物理的時間ではなく、むしろ生命的時間とも考えられる。地獄の苦しみは、短い時間も長く感じさせるように、仏界の大歓喜は時間を短く感じさせる。その実感を言われていると考えてもよいでしょう。
14  才能ある畜生──現代人への警鐘
 斉藤 ここで、「寿量品」編は終了になります。まだまだ教えていただきたいことが多いのですが、次の「分別功徳品」(第十七章)以降に語っていただきたいと思います。
 池田 わかりました。寿量品のしめくくりに、「開目抄」の一節を拝したい。
 それは「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」の一節です。
 (「寿量品の仏を知らない者は、自分の父が治める国であることを知らないで迷っているのであり(親の恩を知らないゆえに人間ではなく)才能はあっても畜生である」と(妙楽大師は)書いている)
 さまざまに拝することができるが、自分自身の生命の根源に迷っている現代人への警鐘とも言えるでしょう。この「才能ある畜生」を、「生命の法に目覚めた真の人間」に変えていくのが、寿量品なのです。寿量品の″心″を、すなわち日蓮仏法の大生命哲学を人々が学び、行ずるとき、真の「人間の世紀」の太陽が昇る。
 経済も政治も、教育も科学も、工業も農業も、家庭も人生も、はつらつたる「生命の法則」に則った社会──それをつくっていくのが、壮大なる「広宣流布」なのです。

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