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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界互具(下)…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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13  飾らず「ありのまま」ひたぶるに生きる
 池田 十界互具の人生は、信心を根本に、「ありのままに生きる」ということです。十界互具を説かない教えでは、九界を嫌う。九界を断ち切って、仏界に至ろうとする。
 これは、広げて言えば、人間を「刈り込んでいく」生き方です。ここがいけない、あそこが悪いと。だめだ、だめだと欠点を否定していく。その究極が「灰身減智」です。そういう反省も大事だろうが、へたをすると、小さく固まって、生きているのか死んでいるのか、わからないような人間になる危険もある。
 「角を矯めて牛を殺す」(少しの欠点を直そうとして全体をだめにする)ということわざがあるが、むしろ少しくらいの欠点はそのままにして、大きく希望を与え、目標を与えて伸び伸びと進ませるほうがいい場合が多い。
 そうやって、はつらつと自信をもって生きていけば、自然のうちに欠点も隠れてしまう。たとえば「せっかちだ」という欠点が「行動力がある」という長所に変わっていく。
 自分の人生についてもそうだし、人を育てる場合もそうです。ありのままの自分で、背伸びする必要もなければ、飾る必要もない。人間だから、泣きたいときもあるし、笑いたいときもある。怒りたいときもある。迷うこともあるでしょう。
 そういう、ありのままの凡夫が、奥底の一念を「広宣流布」に向けることによって、生命の基底部が仏界になっていく。そして、怒るべきときに怒り、悩むべきときに悩み、笑うべきときに笑い、楽しむべきときに楽しみ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき」、活発に、生き生きと、毎日を生きながら、自分もそして人も絶対的な幸福に向かって突進していくのです。
 須田 それこそが十界互具を生きるということですね。
14  我が一念に「広宣流布」を入れる
 池田 そのためには、広宣流布への強き責任感に立つことだ。
 「だれかがやるだろう」とか、「何とかなるだろう」という、いいかげんな気持ちが一念にあれば、自分で自分の仏界を傷つけるようなものだ。
 たとえば今月の予定・スケジュールが決まる。それをただ手帳に書いているだけなら、自分の一念の中には入っていかない。なすべきことを全部、自分の一念の中に入れていくことです。入れていけば、それが祈りとなっていく。一念三千で、勝利の方向へ、勝利の方向へと全宇宙が回転していく。
 自分の魂の中、一念の中に、「広宣流布」を入れていくのです。一切の「我が同志」を入れていくのです。広宣流布を祈り、創価学会の繁栄を祈り、我が同志の幸福を祈り、行動するのです。それが広宣流布の大闘士です。
 悪人は「悪鬼入其身(悪鬼其の身に入る)」(勧持品〈第十三章〉、法華経四一九ページ)だが、その反対に、いわば「仏入其身」とならねばならない。
 広宣流布こそ仏の「毎自作是念(毎にみずから是の念を作さく)」(寿量品、法華経四九三ページ)です。この一念をともにしていこうとするとき、仏界が躍動し、はじめて真の十界互具・一念三千となっていく。
 凡夫の九界の身に、御本仏の生命がわいてくる。十界互具です。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」です。
 ″億劫の辛労″です。広宣流布のために、極限までの辛労を尽くしてこそ、仏界は太陽のごとく輝いていく。この御文にこそ、十界互具の要諦があるのです。

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