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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界互具〈上〉…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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11  「魔を破る」のと「仏になる」のは同じこと
 池田 釈尊も絶えず魔と戦った。「魔と戦い続ける」ことと「仏である」こととは、じつは同じことと言っても過言ではない。
 須田 はい。経典を読みますと、釈尊が生涯、魔と戦っていたことは明らかです。そして、魔が競うたびに、釈尊は魔の誘惑を斥けています。その武器は、「信」と「努力」と「智慧」とされています。
 池田 そもそも釈尊の悟りそのものが魔との戦いです。釈尊が、菩提樹の下で成道した直後の言葉が残されているね。
 遠藤 はい。熱心に修行している釈尊の生命に「法」が顕になった時、″悪魔の軍隊を降して″虚空に輝く太陽のように安立していた、とあります(「ウダーナ」)。
 池田 妙法が己心に顕現し、我が生命は、大空の太陽のように悠然と輝いている。これが、仏界だね。「仏界が顕れる」ことと「魔軍を降す」こととは一体なのです。魔は、内にも外にもいる。しかし、それに勝つか、負けるかは自分自身の一念です。大事なことは、勝ち続けることです。立ち止まらないことです。決して魔に紛動されない自分自身を鍛え上げることです。
 須田 釈尊は、悟りの時だけではなくて、その後も、絶えず障魔と戦い、魔の誘惑を斥けていたと言われています。中村はじめ博士は、こう述べています。
 「悪魔を撃退してからさとりを得たというのではなくて、悪魔を降すこととさとりを得ることとは、同一事実の表裏の関係になっている」(「ゴークマ・ブッダI」、『中村元選集』第十一巻所収、春秋社)
 「ブッダたることは、誘惑を斥けるという行為それ自体のうちに求められねばならぬ。不断の精進がそのまま仏行ぶつぎょうなのである。さとりを開いて『仏』という別のものになるのではない」(『ゴータマ・ブッダ』1,『中村元選集[決定版]』)
 池田 仏界とは、妙法と一体の境地であり、仏とは、妙法を師とする人です。妙法を受持しぬく境地そのものが仏界です。釈尊は成道の直後に、″妙法を師として生き続ける″ことを誓って、こう言っている。
 「わたくしはこの法(dhamma)をさとったのだ。わたくしはその法を尊敬し、うやまい、たよっているようにしよう」(同前)。そして、その通りの生涯をまっとうした。
 斉藤 入滅の時の言葉にも、「わたしは自己に帰依することをなしとげた」(『ゴータマ・ブッダ』2,同選集12)とあります。自己に帰依するというのは、内なる永遠の妙法に帰依するということですね。
 遠藤 弟子たちにも、自分と同じように、「法と自己を拠り所とせよ」と遺言しています。
 池田 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(『六波羅蜜経』)ということです。自分中心ではなく、法を中心に生きるということです。広宣流布を中心に生きるということです。そうしていこうという心が信心です。
12  「信心」が仏界のある証明
 池田 「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」との仰せは、非常に重い意味を持っている。
 法華経を信ずる「信心」が、私たちに仏界が具することの証拠なのです。
 須田 ″仏界を具しているから法華経を信ずることができる″というのは、少し不思議な感じがします。″法華経を信ずるから仏界に至ることができる″と考えるのが普通ですが、この考え方とは、方向が逆ですね。
 池田 両方あるのです。たしかに法華経を信ずるから仏界に至ると言える。しかし、その「法華経への信」は、自分が久遠の妙法の当体であるからこそ、つまり仏界を具しているからこそ可能なのです。「一切の人々が成仏できる」という迹門の法門にしても、「仏の生命は永遠である」という本門の法門にしても、永遠なるものを自分の中に感じられるからこそ、信ずることができるのです。
 斉藤 無意識的にせよ、人間であれば、誰でも、永遠なるものを感じていると思います。
 池田 誰もが「永遠を感ずる力」をもっている。それが人間の最も大きな特徴かもしれない。宗教が人間にしかないのも、そのためでしょう。それは、「生命の尊厳を感ずる心」と言ってもよいし、「人との絆を貴ぶ心」「自然・宇宙と共鳴していく力」とも言える。そういう「善なる心」「善なる力」こそが法華経を信ずる信力の源です。
 いずれにせよ、私たちに仏界が具しているからこそ、法華経を信ずることができると言えるのです。そして、その信力によって法華経を信ずれば、もともと具わっている仏界の力が開放され、価値創造へと生かされていく。ますます強まっていく。
 須田 仏界があればこそ信心が起こり、信心によって仏界が開かれてくるという関係にあるわけですね。
 斉藤 一面の譬えですが、九界は部屋に閉じこもっている状態、仏界は晴れ渡って澄み切った外の世界に譬えられないでしょうか。九界の衆生は、もともと仏界という大宇宙の中にいる。人間は、それを「永遠を感ずる」という形で、うすうすは感づいていたが、迷いという厚い壁に覆われた部屋に閉じこもっているため、わからなかった。しかし、信心によって迷いの壁を破れば、妙法という大宇宙の空気を呼吸できるようになる……。
 遠藤 信心のカギによって心の窓を開ければ、外のさわやかな空気も、さんさんたる光も部屋に入ってくる。部屋の中にいても外にいるのと変わらなくなります。
 池田 九界と仏界の関係については、次に語ることにしよう。
13  「一心に仏を見る」一心が仏
 池田 ともあれ、心の開放、内なる力の涌現が、私たちの信心の実感だね。学会活動しきったあとの、あのさわやかさ! 受け身ではいけない。不自惜身命でこそ、本当の力が出る。
 日蓮大聖人は、「一心欲見仏不自惜身命」(法華経四九〇ページ)の経文によって、「己心の仏界」を顕すと仰せです(「義浄房御書」御書八九二ページ、趣意)。みずからの身命を惜しまず、一心に仏を求めるというのは「信心」であり、「求道心」です。御本仏を求め抜く一心に、御本仏の力用が現れるのです。大聖人は、この「一心欲見仏」を、より深く読まれているね。
 須田 はい。「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」と仰せです。
 池田 そう。最初は「一心に仏を見る」であったが、最後は「一心を見れば仏なり」となっている。信心の一念、不自惜身命の一心が、そのまま久遠の仏界となって現れるのです。要するに、信心即仏界です。これが「人界所具の仏界」の実相です。
 遠藤 不自惜身命──「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」との仰せと同じですね。
 斉藤 日寛上人が「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)と言われているのも同じ意味ですね。
 池田 同じことを言われているのです。仏法を守ろう、仏子を守ろう、難を我が身に受けていこうという「師子王の心」こそ、仏界涌現の秘訣なのです。
 斉藤 学会の「死身弘法」「不惜身命」の精神の大切さを改めて知る思いです。
 池田 信心とは、広宣流布のために、自分の一切を捧げていくという修行です。自己中心を捨てるのです。殉教です。
 牧口先生も、戸田先生も、私も、ただ広宣流布のため、みんなのため、社会のため、人のために生きてきた、自分のためなんか、考えない、一番、あと回しです。だらけた考えで、成仏などできるわけがない。大聖人は「身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめ」と仰せだ。
 仏とは人間です。戦い続ける人間です。どこか別世界にいるような、特別の存在とかではない。凡夫即極と仰せです。諸法実相であり、諸法という、人生と社会の「現実」のなかに、実相がある。仏界がある。
 ある人はビジネスマン、ある人は教師、ある人は主婦、ある人は農業というように、社会のさまざまな活動の中に「仏界」の躍動はある。それが法華経の見方です。
 須田 宗門のように、弘教もしない法主を特別な仏のように崇めさせるというのは、法華経の心を、まっこうから殺すものです。
 遠藤 インチキに、ごまかされてはいけませんね。
 池田 私どもは祈りの時に「合掌」する。両の掌を合わせることで「仏界即九界」を表す。また「妙法」を表す。(「御義口伝」に「合とは妙なり掌とは法なり(中略)合とは仏界なり掌とは九界なり」と)
 すなわち何があっても、信心根本に題目をあげていくところに仏界がある。九界の苦しみが、どうあろうと、強き強き信心によって、九界即仏界、仏界即九界の人生となっていく。題目を唱えて、すぐに祈りが叶う場合もあれば、すぐには叶わない場合もある。それでも、祈りを続けていく。題目を唱えていく。行動していく。その信心が即「仏界」です。その信心が即「勝利」なのです。
 その信心を、人生の最後の最後まで燃やしきっていけば、寿量品の「久遠の仏」と一体の三世の旅路となるのです。

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