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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 十界論(中)「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  人界──自分に打ち勝っ「軌道」を
 斉藤 そこで「人界」ですが、さきほど修羅が「勝他の念」であるのに対して、人界は「自分に勝つ」境涯であると言われ、パッと聞ける思いがしました。
 池田 正確には「自分に勝つ」境涯の第一歩が「人界」です。その最高の段階が菩薩界であり仏界です。大聖人は仏典を引いて「三帰五戒は人に生る」とされている。
 三帰(仏への帰依・法への帰依・僧伽〈修行者の組織〉への帰依)も、五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒成)も、正しい人生の「軌道」を歩んでいこうとする努力です。
 「軌道」を歩むことによって、自分の生命が安定してくる。「慢」の心のように、揺るがなくなるのです。
 三帰は、広げて言えば信仰心です。修羅は、自分より優れたものは認めなかった。頭を垂れなかった。しかし、そうすることによって、結局、慢心の奴隷となり、悪のとりこになってしまった。
 「人界」は、反対に、自分を超えた大いなる存在を畏敬し、全生命をあげて尊敬することによって、かえって自分自身を豊かにするのです。
 五戒というのは、生命を外側から縛るものではなく、内面化された規範であり、誓いであり、人生の軌道といってよい。
 五戒を破れば苦しみの果報があると知って、知性で自分で自分をコントロールできるのが「人界」です。
 須田 梵語では「人間」は、マヌシャといい、「思考する者」「考える者」という意味です。やはり知性が大切な要件です。
 大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と仰せです。三悪道・四悪趣よりも、ちゃんと物事の善悪を見る力がある境涯ですね。
 斉藤 天台は、人界の特徴として″結果が出る前に広く因を修めていること″をあげています。「因果の道理」を、それなりに弁えているのが人界です。
 遠藤 「大白蓮華」の一九九七年五月号に「仏教の人権思想」と題して、サリー・キング教授(ジェームズ・マディソン大学)へのインタビュー記事が載っていましたが、五戒についても言及されていました。
 仏教で説く戒律──たとえば、不殺生戒は、他人に対する善にもなり、同時に自分にとっての善にもなっている、と。なぜならば、他人を害すれば、因果の法に従って自分自身をも害することになるからです。
 そうした視点から、教授は「自身への戒めの心に根差した生き方は、結局、すべての人のためになるのです」「こうした生き方の中に仏教的な人権意識がはぐくまれている」という結論を導き出しています。
 池田 仏教の現代的な意義が浮き彫りにされているね。自分を生かし、人をも生かす「道」。人間としてどう生きるのが正しいのか──その「軌道」を仏法は明かしているのです。「軌道」を歩むゆえに、一歩一歩、向上するし、安定するのです。
 人界の境涯について、大聖人は、観心本尊抄で「平かなるは人なり」と仰せだ。
 須田 平静な生命状態ですね。一日の生活でいえば、仕事や家事を終えた後の穏やかなひととき、といったイメージでしょうか。
 遠藤 「平かなるは……」のところで、いつも思い浮かぶ小説があります。吉川英治氏の『新・平家物語』(『吉川英治全集』39所収、講談社)のラストシーンです。
 源平の戦乱の半世紀を見続けてきた庶民──阿部麻鳥あべぼあさとりと妻・よもぎの二人が、吉野山の桜を見ながら過去を振り返り、しみじみと幸福をかみしめて語り合う場面です。
 「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ」
 「それなのになんで、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう」……。
 「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変りがあろう」
 戦乱の中を不思議にも生き延びてきた、平凡な老夫婦の姿──。これはまさに「人界」ではないかと思います。
 池田 有名なシーンだね。平凡かも知れないが、そこには人間としての立派な輝きがある。
 「修羅」の生命は「位階」や「権力」を求めて争い、血を流し、傷つけ合っている。
 しかし、二人は、自分自身に生きた。人と比べるのではなくて、自分らしく、自分の道をまっとうした。
 その「軌道」が修羅の世相のなかでも、人界の安心をもたらしたと言える。安心といい、「平か」と言っても、決して努力なくして得られるのではない。努力しなければ、環境に染まってしまうものです。
10  何のために「人界」に生まれたのか
 須田 たしかに、人界といっても、環境の変化やさまざまな縁にふれて、たちまち三悪道や修羅の生命に引きずりこまれてしまいます。
 私たちの日常の経験から言っても、「平かなる」自分を維持していくことは大変です。ちょっとしたことで、すぐにふさぎ込んだり、カッとなったりします。
 池田 人間が人間らしく生きることの難しさです。いわんや悪世であり、悪縁ばかりの世界です。
 だからこそ、「人間らしく生きる」には、絶え間なく向上する「軌道」が必要です。それが私どもの仏道修行です。コマも静止してしまえば倒れてしまう。安定していられるのは猛スピードで回転しているからです。
 斉藤 「人間に生まれた」ということは「人間になる可能性をもっている」ということにすぎないのかもしれません。
 池田 だから教育が大事なのです。「人間らしい人間」になるための人間教育が必要なのです。
 遠藤 そう言えば、こんな話を聞きました。子どもがテストで百点を取って帰ってきた。母親は、開口一番「百点はクラスに何人いたの?」と聞いたと言うのです。「たくさんいた」と言ったら、「じやあ、百点でも当たり前ね」と。
 須田 子どもは、やりきれませんね(笑い)。
 遠藤 子ども自身が何を学び、どれだけ進歩したのか──その喜びや努力を見ないで、″他人と比べてどうか″ということばかり気にする。これでは、修羅界の人間を育てているようなものではないでしょうか。
 池田 「平凡でも、人間らしく生きる」ことがむずかしい世の中に、だんだん、なってきている。
 十界論では「人界」は十界の中心に置かれている。ここからさらに上の境涯に行くこともできるし、下の境涯に転落することもある。そういう要の位置にあると言ってよい。だからこそ大聖人は、せっかく人界に生をうけたのだから、より高い境涯を目指して歩みなさいと、繰り返し繰り返し、仰せなのです。
 須田 はい。たとえば、「夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し」と仰せです。
 遠藤 また「今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだ黙止しては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき」ともあります。
 せっかく人間に生まれ、あいがたき正法を目にし耳にしながら、今世でそのまま何もしないでいたら、一体いつの世に、生死を離れるのか──いつ永遠の幸福を得られるのかという意味です。
 池田 だから元気なうちに真剣に働くのです。広宣流布のために勇んで働いた分だけ、自分の生命の中に「永遠の幸福」への軌道が固まっていく。
 仏法では人界を「聖道正器」と言って、仏道を行じられる法器──″法の器″としている。その器に仏界の大生命を満たしてこそ、人界に生まれてきた真の意義がある。
11  人類の境涯を引き上げる戦い
 斉藤 その意味で、人界は人界以上の境涯を目指して進んでこそ、人界としての意味があると言えるのではないでしょうか。
 池田 そう言えるでしょう。それが「天界」であるし、「二乗界」「菩薩界」「仏界」です。
 ともあれ「境涯」は不思議です。自分で気がつこうと気がつくまいと、自分の感情はもちろん、振る舞いも、思考も、人間関係も、人生行路も、自分の「境涯」によって大きく決定づけられている。
 個人だけではない。社会にも十界の傾向性がある。私どもの広宣流布ほ、個人の境涯を変えるのみならず、一国の境涯を変え、人類の境涯を引き上げる運動です。人類史上、いまだかつてない壮大な実験なのです。
 私は今、田中正造翁の晩年の言葉を思い出します。
 (翁は、足尾鉱毒事件の解決に努力した政治家、社会運動家〈一八四一年〜一九一三年〉。近代日本の民衆蹂躙に、生涯、抵抗した)
 「国は尚人の如し。人こえたるを以って必ずしもたつとからず。知徳あるを尊しとす。国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、痩せても知識あるを尊しとす」(明治四十一年十月の「日記」から、『田中正道全集』11〈田中正道全集編纂会編〉所収、岩波書店)
 日本の国は、内外の民衆を犠牲にして、「富国強兵」の「修羅」の道をひた走り、傲慢になって、魂を失った。
 「人間としての軌道」を失ってしまった。
 翁は「日本形ありとするも精神已になし。日本已になし」(大正二年四月二日の「日記」から、同全集13所収)とも言いきっている。亡くなる四ヵ月前です。日本が形の上でも滅びたのは、その三十二年後です。
 同じ悲劇を繰り返させたくないからこそ、私たちは叫んでいるのです。「慢心を捨てよ! 謙虚に人間主義の道を求めよ!」と。

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