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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 生きて生きて生…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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14  未来の人々を救うメッセージ
 遠藤 寿量品のあらましですが、久遠の釈尊の″過去の常住″が説かれたところまで述べてきました。寿量品では次に、仏が″未来においても常住する″ことが明かされていきます。すなわち、「私が、もと菩薩の道を実践して成就した寿命は、今なお尽きていない。さらに五百塵点劫に倍して続くであろう」(法華経四八二ページ、趣意)と述べられます。
 斉藤 未来に向けてのメッセージですね。「衆生を救う」という観点から言えば、過去よりも、むしろ未来の方に寿量品の本意があります。大聖人は、寿量品はもっぱら釈尊滅後の衆生のため、なかんずく末法のために説かれたと仰せです。
 ただ、過去を説いているのは、″成仏の本源に遡る″意味があるのではないでしょうか。
 池田 そうかもしれない。仏の生命の根源の姿を示してこそ、生死に苦しむ未来の人々を救えるからです。
 その一番の本源を示唆するのが、今の「我本行菩薩道(我もと菩薩の道を行じて)」(法華経四八二ページ)の文だね。
 斉藤 久遠における釈尊の成仏には、″成仏した本因″があったということです。ここを深く究めると、大聖人の文底仏法に入ってきます。
 須田 大聖人は「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と仰せられています。では、寿量品のどの文の底なのか──古来、いろいろと論議されてきました。日寛上人は、この「我本行菩薩道」の文の底に沈められていると明快に述べられています。
 池田 そうだね。「永遠の大生命」を自覚した仏の不可思議な境地を、天台は「一念三千」として表現した。その一念三千も、寿量品を魂とします。
 ただ、寿量品では、釈尊の成仏後(本果)の不可思議な姿をもって永遠の生命を示した。これが「本果妙」です。しかし問題は、現実の人間がどうしたら永遠の大生命を自覚できるかです。それを説くのが大聖人の「本因妙」の仏法です。
 その点についても、後に掘り下げる機会があるでしょう。
 須田 ところで、仏が常住不滅であり、未来も常住するのであれば、「仏は、なぜ入滅するのか」という問題が、生じてきます。
 経文では″もし仏が入滅しなければ、衆生は、仏にいつでも会えると思い、仏を求め、尊敬する心をもとうとせず、怠慢になってしまう。そのために、仏はあえて方便として入滅する″と説いています。
 「方便現捏槃(方便して捏槃を現ず)」(法華経四八九ページ)の教えです。
 斉藤 これについても、また論じていただくことになると思います。ともあれ、寿量品は、一切経の魂です。仏法とは何か。何を説いたのか。その答えが寿量品にあります。
 池田 そう。日蓮大聖人は「一切経の中に、この寿量品がなかったならば、天に太陽と月がないようなものであり、国に大王がなく、山河に宝珠がなく、人に魂がないようなものである」(御書二一四ページ、趣意)と言われている。
 寿量品を学ぶことは、仏法の真髄を学ぶことであり、生命の真髄を学ぶことであり、自分自身の「真実の姿」を学ぶことなのです。
 それがわからなければ、何をやっても、根本は無明です。迷いであり、苦しみです。まさに″天に太陽と月がない″暗黒の世界です。
 そこに″希望の太陽″を昇らせるのが寿量品です。それを「人間革命」という。
 須田 そう言えば、冒頭に話の出たキューブラー・ロス女史が、こう書いていました。
 「自分自身を癒さないかぎり、世の中を癒すことはできません」(鈴木晶訳、前掲書)
 「手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。そして世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなくてはならないのです。どうかこのことを胸に刻んでください」(前掲『「死ぬ瞬間」と臨死体験』)と。
15  「人間革命の世紀」へ!
 池田 その通りです。世界を変えるためには、自分自身が変わらなければならない。その「変える」べき根本は、生命観にある。生死観にある。自分観にある。この生死という問題に、根本の指針を与えるのが法華経の寿量品です。
 一般論としても、永遠の何かを信じることが、人間をより人間らしくする。内村鑑三だったか「私は健全なる来世観ほど、人を偉大になすものはないと思ひます」(『キリスト教問答』角川文庫)と言っている。そうでしょう。
 ″人生はこの世限り″と思っていては、本当に深い人生を生きることはできないのではないだろうか。永遠性を知らなければ、根底が刹那的になる。
 譬えていえば、浅瀬を泳いでいるようなものです。赤ちゃんが夏にビニール製のプールで遊んでいる。赤ちゃんのうちはそれでいいかもしれないが、小学生になり、本物のプールを知れば、それでは満足できなくなる。さらに海で泳ぐ喜びを知れば、いくら波のあるプールでも物足りなくなる。人生も同じです。
 自分の中に広がる″生命の大海″に目覚めてこそ、本当に充実した「大いなる人生」を生きられるのです。今、人々は、いよいよ「生と死」を見つめ始めた。「人間」を見つめ始めた。二十一世紀への胎動です。
 「生命の世紀」とは、「人間革命の世紀」です。寿量品の「永遠の生命」を根底にした大文明が花開く世紀なのです。

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