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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 我、地涌の菩薩…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
13  真の法華宗とは「人間宗」
 池田 さらに、博士はこう論じている。「何百年にもわたって受け入れられてきた人間に対する概念そのものを変えなければ、この地球に未来があるかどうかは疑わしい。もし明日があるとすれば、地球と地上にある一切のものに対する聖なる敬意が再び生まれなければならないからだ」(前掲『魂の再発見』)
 この「人間に対する概念そのもの」を大転換していくのが仏法です。それは知的転換にとどまらず、慈悲の実践という、振る舞いの変革になって現れる。人間自身の「境涯の変革」ということです。地涌の菩薩の登場は、その壮麗なる号砲といってよい。
 端的に言えば、真実の「法華宗」とは、「人間宗」なのです。このことは戸田先生も言われていた。
 斉藤 人間こそ偉大──ということで、興味深い言葉があります。アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンが言った次の言葉です。
 「いま世上に行われている『キリスト教への信仰』は、『人間への不信仰』にほかならぬ。(中略)キリストは人間の偉大さを説いたが、私たちはただキリストの偉大さだけを聞かされている」(「たましいの記録」『エマソン選集7』小泉一郎訳、日本教文社)と。
 池田 エマソンらしい洞察だね。そうなのです。″神聖なるもの″、は国家でもイデオロギーでもない、また超人的な神や仏でもない。
 地涌の菩薩は、じつは仏です。しかし、仏というと、どうしても超越的な感じに見られてしまう。地涌の菩薩は、あくまで「修行する人間」としての菩薩に徹している。人間に徹しているのです。ここに重大な意義がある。
 「人間」への信頼、「人間」への信仰──その復権こそ、われわれが論じ合っている「二十一世紀の宗教」のカギなのです。ある意味では、偉大なる「人間教」「生命教」の登場を、世界は待ち望んでいるのです。
 須田 時代の最先端ですね。
14  池田 たとえば、今世紀の大変動の一つであるソ連邦の崩壊なども、根本は「人間自身」の内面の渇きによるものといえるかもしれない。
 遠藤 そう言えば、イスラエルのシモン・ペレス元首相(ノーベル平和賞受賞者)は、こう述べていました。
 「ソ連は、アメリカの圧力やヨーロッパの内政干渉、中国の脅威を受けて崩壊したのではない。圧力は外部からかけられたのではなく、内部から吹きだしてきた。人間の組織におけるとてつもなく大きな変革が、軍隊の銃も、政党の旗じるしも、大国の脅威もなしに起こったのである」(ネイサン・ガーデルズ編『知の大潮流──二十一世紀へのパラダイム転換』仁保真佐子訳、徳間書店)と。
 須田 ″外からの力″による崩壊ではなく、″内からの叫び″による破綻であったということですね。
 遠藤 ペレス氏は、この当時に見たある鮮烈な映像について語っています。
 ──それはゴルバチョフ大統領へのクーデター未遂事件が起きたときの報道であった。
 モスクワの″ホワイトハウス″であるロシア共和国最高会議の建物の前には、大勢のソ連軍兵士の姿があった。
 「兵士たちは『誰がかまうものか』と言いたげな冷めたようすだった。そのとき突然一人の″おばあさん″が兵士たちのところに来て、『子供たち、こんなところで何をしているんだい。さっさとお帰り!』と怒鳴りつけた。まるで″おばあさん″がソ連軍の唯一の指揮官であるかのようだった」「ソ連が打倒されようとする時、軍はもはや中立を保った。より正確に言えば、傍観していたのである」(前掲、引用・参照)とペレス氏は回想しています。
 斉藤 緊迫した場面なのに、ものすごい勇気のあるおばあさんですね。学会草創から戦い抜いてこられた「多宝会」のおばあちゃんのようです。
 池田 いざという時に強いのは庶民です。庶民のなかで鍛え抜かれた「人間そのもの」が輝くのです。この「人間そのもの」を最高に輝かせるのが、妙法の信仰です。
 日蓮大聖人は叫ばれた。「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」と。この一節が、私には万感の思いで迫ってくるのです。
 「人間革命」の大闘争は、人類が待ちに待っていた生命の夜明けです。歴史の夜明けです。これこそ、生命の根底からの人間の解放です。永遠の次元にわたる人間の解放です。そのために、大聖人が一人立たれた。
 この「地涌の法旗」のもとに、久遠からの不思議なる縁をもって馳せ参じたのが私どもなのです。「我いま仏の旨をうけ」(「同志の歌」)──と。
 それを思えば、どれほどの使命があるか。どれほどの力がわくか。百万馬力のエンジンにギアを合わせたような自分自身となれるのです。

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