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日蓮大聖人・池田大作

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従地涌出品(第十五章) 動執生疑──境…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  斉藤 人類全体の動執生疑というと、この対談の冒頭で語っていただいたことを思い出します。それは、「人は『どこから』そして『どこへ』『何のために』──この問いに答えることこそ、人間としての、一切の営みの出発点となるはずです」という先生の言葉です。涌出品から寿量品にかけてダイナミックに展開される「永遠の仏陀観」は、まさにその答えになるのではないでしょうか。
 須田 ルネサンス期の桂冠詩人ペトラルカは書いています。
 「いったい自分は、どのようにこの人生にはいりこんできたのか、どのように出ていくのであろうか」(『わが秘密』、近藤恒一訳、岩波書店)と。
 「人間の本性がいかなるものか、なんのためにわれわれは生まれたのか、どこからきて、どこへいくのか、ということを知らず、なおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇やの性質を知ったとて、それがいったいなんの役にたつだろうか」(同)。
 池田 その通りだ。現代ほど、人間が、「何のため」を忘れ、自分自身を小さな存在におとしめてしまっている時代はない。社会の巨大なシステム(制度や機構)の中で、「自分の力などたかが知れている。自分一人が何かしたところで、世の中が変わるわけはない。うまく社会に適応して生きていくのが精一杯だ」──こうした無力感が、人々の心を覆っている。
 斉藤 そこに、今日の世界の閉塞感の″一凶″があります。自分を小さな存在と思いこまされ、疑問すら抱けなくなっている。疑問さえもたず、安住してしまっている。そうした精神の不毛さが、ますます人間を小さくしています。法華経の教えは、こうした卑小なる人間の限界を打破するものですね。
 池田 そう。「しかたがない」という、凍てついた、あきらめの大地を叩き壊すのが涌出品です。「人間の底力」「民衆の底力」を、晴れ晴れと、巍々堂々と満天下に示していく戦いです。
 須田 先生はロシア科学アカデミー東洋学研究所のヴォロビヨヴァ博士と会見されました(一九九六年二月)。博士が寿量品の「久遠の仏」について言われたことが印象に残っています。「仏と融合する境涯を寿量品では説いていると思います。これは『時間を超えた』概念です。宇宙のエネルギーを、自分自身のエネルギーとするのです。その宇宙との一体感を味わう境涯を『永遠性』として表現したのではないでしょうか」(「聖教新聞」一九九六年二月十七日付)と。
 池田 鋭い直感です。その「仏と融合する境涯」「宇宙との一体感を味わう境涯」を、我が身に体感して登場したのが地涌の菩薩ではないだろうか。
 菩薩と言いながら、じつは仏である。地涌の菩薩が「どこから」来たか。天台は「法性の淵底、玄宗の極地」(『法華文句』)に住していたと言っている。つまり、生命奥底の真理であり、根本の一法である南無妙法蓮華経のことです。
 宇宙の本源であり、生命の根本の力であり、智慧の究極であり、あらゆる法理の一根です。地涌の菩薩は、その本源のエネルギーを体現している。しかも菩薩です。
 菩薩ということは、完成(仏果)ではなく、未完成(仏因)である。未完成でありながら、完成(仏果)の境涯を体に漲らせている。否、完成(仏果)の境涯を法楽しながら、しかもさらに先へ、さらに高みへ、さらに多くの人々の救済へと行動している。未完成の完成です。
 地涌の菩薩とは、妙法を根本とした「永遠の行動者」であり「永遠の前進」の生命です。その、はつらつたるエネルギーを、わが生命にわき立たせていくのが、個人における「地涌の出現」です。これまでの小さな自分の殻を叩き破っていくのです。
 斉藤 たしかに信仰していなければ、私たちは自分のことで、精一杯だと思います。不幸な人を救おうという余裕はなかったでしょう。いわんや一国を変え、全人類の宿命を変えようなどということは思いもしなかったにちがいありません。
 遠藤 それが創価学会によって、御本尊を知り、″蒼蝿そうよう驥尾に附して万里を渡る″(青バエが駿馬にくっついていれば、ともに万里を走れること)人生とさせていただいたわけです。感謝してもしきれません。
 池田 境涯革命です。個人の境涯革命を一人一人、広げていくことによって──これが地涌の涌出だが──社会全体の境涯を変える戦いです。人類全体の境涯を高めるのです。この変革が「大地を打ち破って」という姿に、象徴的に表されているのではないだろうか。
 斉藤 その意味では、法華経の会座にいた大衆の「始成正覚のとらわれ」は、自分がどこから来たのか知らない──つまり自分自身の根源である「永遠なる生命エネルギー」を知らないということですね。これは現代人の迷いにも通じますね。
 池田 その通りです。自分の生命の偉大さに気づかないゆえに、小さな枝葉末節にとらわれてしまう。民族とか人種とか、性別とか社会的地位とか。そうした、あらゆる差異を突き抜け、人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力です。″裸一貫″の、ありのままの凡夫「人間丸出し」の勇者。それが地涌の誇りなのです。いわば、地涌の出現とは、「生命の底力が、かくも偉大なり!」という壮大な轟きです。地響きです。
 これを世界に広げていくのです。本門の″仏陀観の変革″は即、根本的な″人間観の変革″を意味している。
10  遠藤 はい。米ジョージタウン大学のD・N・ロビンソン博士(名誉教授)は「現代の迷信」について、こう論じています
 「人は自分をどんな存在と考えるかによって、その行いが変わってくるし、他者についても、それをどんな存在と見るかによって、求めるところが違ってくる──これはほとんど自明の理といってよいだろう。そしてこの理は、人間の社会や政治の歴史の中にも、はっきり見て取ることができる。人間を『神の子』と見るか、『生産の道具』と見るか、『運動する物体』と見るか、あるいは『霊長類の一種』と見るかによって、社会や政治のあり方は著しく変わってくるのである」(ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン共著『心は脳を超える』大村裕・山河宏・雨宮一郎共訳、紀伊國屋書店)
 博士は、現代人は「唯物論」とか「環境的決定論」とかの″迷信″に閉じこもっているとして、その″迷信″を疑うべきであると主張しています。
 「『ファラオは生きた神』とか、『神に授けられた国王の権利』とか、『アフリカ原住民は生れながらの奴隷』などといった言葉は、過去いかに不条理な人間観が時代を支配してきたかを如実に物語っている。しかし、人々は一般に、みずからその中に生きている時代の人間観に対しては、驚くほど批判を持たない」(同前)と。
 斉藤 現代人が自明と思っている人間観が、じつは後世から見たら大いにゆがんだものかもしれません。
 須田 問題は、博士の言う″現代の迷信″が、ことごとく人間を小さな存在に閉じ込める方向になっているということですね。
 たとえば「心」は宇宙にも広がり、三世にも広がっているものなのですが、現代人は、「心」は現在の小さな「脳」の中にあるものと思っています。
 遠藤 それを動執生疑させなければならない。そういう人間観がつくる社会はどうしても荒廃した希望なき社会になるからです。
 池田 その動執生疑は、地涌の菩薩の「姿」で「行動」で起こさせるのです。「声」で起こさせるのです。法華経でも、荘厳な事実の姿で、動執生疑を起こさせたように。
 ともあれ現代のわれわれにとって、地涌の出現とは、二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀、そして万年の未来へと続く「地球革命」への船出のファンファーレととらえたい。
 大聖人は、門下にこう呼びかけてくださっている。
 「すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」と。
 断じて嘆くな! 大悪があるからこそ大善がくるのだ。上行菩薩が、大地から踊って出てきたように、楽しく勇んで、舞を舞いながら、前進していきなさい、と。
 民衆の大地から踊り出る「勢い」こそ、私ども地涌の菩薩の身上なのです。

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