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日蓮大聖人・池田大作

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提婆達多品(第十二章) 竜女成仏――大…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
15  「一個の人間」に提婆と竜女の両面が
 斉藤 はい。この両方がなぜ、ここで説かれているのか、前半と後半で脈絡がないではないかといった指摘もなされています。しかし両方あって初めて、人間の全体像が押さえられると思います。男性と女性の両方ということもありますが、一個の人間における「提婆達多」の面と「竜女」の面が成仏するという意義があるのではないでしょうか。
 池田 そうだね。大聖人は、「提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす」、「提婆は我等が煩悩即菩提を顕すなり、竜女は生死即涅槃を顕すなり」と論じておられる。この両方があるからこそ、一個の人間における色心ともの成仏になるのです。
 遠藤 竜女の場合、畜生の身そのままで「即身成仏」したところに説法の力点があるわけですから、色心二法のうち「身の成仏」を象徴しているわけですね。また悪人成仏の場合、善悪は心の問題で、悪人と善人で身体が違うということはありません。そこで竜女に対比すれば「心の成仏」を象徴するということだと思います。
 須田 「心」の次元の成仏は、煩悩即菩提ですし、生死即涅槃は「身体」を含んだ生命全体の次元です。この両方があって色心不二の成仏となります。提婆品全体で、一個の人間の色心も、「男性的なるもの」も「女性的なるもの」も成仏することを表していると考えられます。
 池田 その通りだが、これは決して形式論ではない。自分自身という存在にどこまで深く肉薄するかという問題です。日蓮大聖人は佐渡流罪という生涯最大の難のなかで、一個の人間としての御自身を、ぎりぎりまで見つめられた。「佐渡御書」では、こう仰せです。
 「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(中略)心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」云々と。
 流人の身です。権力者と対極にある。地位もない。財産もない。権力もない。満足な食糧も衣服も住居もない。あるのは生命のみ。まさに赤裸々な「人間」それ自身だけです。そういうなかで、ご自身の存在を″身は畜身なり″と言い切られた。
 たしかに人間の身体は、つまるところ動物としての身体です。ですから、その意味でも、竜女の「畜身の成仏」は他人事ではないのです。女性だけのことでないのは言うまでもない。そして″心は梵天帝釈も恐れない″と。この「心」ひとつで、大聖人は強大な幕府権力と戦われたのです。
 大聖人のご内省は、さらに続きますが、結論として、この裸一貫の心身を法華経に捧げきって、色心ともに仏になる、必ず自分は仏になるのだと高らかに宣言なされている。
 斉藤 「いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」──不軽菩薩と同じ修行を行じる日蓮が、それを因として、どうして一人、仏にならないはずがあろうか──と仰せです。
 池田 大難を受け、大難と戦いきってこそ「即身成仏」はあることを教えてくださっているのです。提婆品も、この一点を忘れて読めば観念論になってしまう。
16  女性の連帯が「文明の質」を変える
 池田 いわゆる「男性的なるもの」にもプラス面とマイナス面がある。たとえば、「力」を自在に行使して何かを建設する面があるとしたら、それは場合によっては、権力欲となり、横暴さや破壊となって表れるかもしれない。まさに「悪人」です。提婆達多です。
 一方、「女性的なるもの」に、多くのものを「包みこむ」特質があるとしたら、それは場合によっては、貪欲に「のみこむ」悪となって表れるかもしれない。
 遠藤 鬼子母神は、その典型ですね。
 池田 それらのプラス面を最大に輝かせるのが、提婆と竜女の成仏であり、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実証と言えるでしょう。
 さらに、女性だから女性の苦しみがわかり、女性を救っていける。女性として苦しんだ分だけ、人を幸福にできる力となる。それが妙法の力です。また、それが竜女成仏です。畜身で女性で年少で──一番、低く見られていた竜女が一番早く「即身成仏」した。そこに意味がある。ともあれ、しいたげられた差別社会のなかで、竜女成仏は万感の思いをこめた「人権宣言」だったと言えるでしょう。
 フランス革命の人権宣言(一七八九年)は有名ですが、そこでいう「人」とは「男性」だけであった。それを批判して「女性および女性市民の権利宣言」(一七九一年)を発表した女性がいた。彼女、オランプ・ドゥ・グージュは、しかし″反革命″の罪状でギロチンにかけれてしまった。その他、女性の人権を獲得するために、無数の犠牲が払われてきました。
 その尊き歴史をムダにしないためにも、法華経に基づく「女性の人権宣言」は、一人一人がだれよりも幸福になることが根本です。一人の犠牲もなく、一人一人竜女のごとく、生死海の大海のなかで「苦の衆生」を救いながら、自他ともに絶対の幸福境涯の航海をしていくのです。
 女性は幸福になってもらいたい。ならねばならない。それが法華経の心です。そして竜女とは、「竜」は父の竜王、「女」は娘で、「親子一体の成仏」を表す。自分の成仏で、親をも救っていける。
 さらに、竜女が成仏して活躍する国土が「無垢世界」と説かれるように、一人の女性の成仏は周囲の一切を浄らかな美しき世界に一変させてしまう。さらに、みずからの尊貴さに目覚めた女性の連帯は、文明の質をも変えていくでしょう。学会の婦人部・女子部の皆さまは、その先覚者であり中核です。これ以上に尊い存在はない。かけがえのない方々です。世界も注目しています。
 たとえばタゴール(インドの詩聖)が、現代文明を男性優位の「力の文明」とし、女性の力で、慈愛に基づく「魂の文明」を育ててほしいと念願したのは有名です。(「人格論」山口三夫訳、『タゴール著作集』9所収、第三文明社、参照)
 斉藤 たしかに自然破壊にせよ、生命を機械視する科学にせよ、男性的な「支配する知」が根底にあると論じられています。
 池田 その意味で、提婆品は、文明の在り方をも転換させゆく大きな示唆を秘めているのではないだろうか。
 端的に言えば、「物質文明」から「生命の文明」への転換です。「支配と服従]の社会から、「調和と慈悲」の社会への転換です。その転換の一つのカギは、竜女をたたえた文殊菩薩の言葉にあると思う。
 「衆生を慈念すること、猶、赤子の如し」(法華経四〇六ページ)。生きとし生けるものを我が子のように慈愛で包んでいくと言うのです。その境涯を女性も男性も、人類全体が目指していく。そこに竜女成仏の文明論的意味があるのではないだろうか。

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