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日蓮大聖人・池田大作

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提婆達多品(第十二章) 悪人成仏――″…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
10  斉藤 善悪の関係ということについては、一つには爾前経のように、善と悪を対立するものとして固定的にとらえる見方があります。また、一方では善悪は表と裏のようなものであるとして、一つの生命の違った側面であり、体は一つであるとする見方もあります。
 池田 「善悪不二」というと、後者の見方ではないかという人もあるが、そうではない。それでは善悪が見方の違いということになり、生命それ自体が固定されたものになってしまう。そのような見方では、生成流動してやまない生命の姿がありのままにとらえることはできません。真意は、あるときは善の価値、あるときは悪の価値を生みながら、その生命の当体は一つであると見ていかなければならない。
 須田 いま、善悪について、合わせて三つの見方が示されました。これは、中国天台宗の四明知礼(九六〇年〜一〇二八年)が「即」の考え方について分類した「二物相合にもつそうごう」「背面相翻はいめんそうほん」「当体全是とうたいぜんぜ」の三つに当たります。
 まず善悪は別々のものであるから悪を滅していけば善が現れるというのが「二物相合」に当たります。善悪は一つのものの表と裏のようなものとするのが「背面相翻」に当たります。そして、善と悪があくまでも対立して現れるものであるが、その善なら善、悪なら悪と現れている当体が、実相においては、善悪不二であるととらえるのが、「当体全是」です。
 池田 その分類はむずかしいが、たとえば「瞋恚しんには善悪に通ずる者なり」と大聖人は言われている。悪への正義の怒りは善。エゴの怒りは悪。怒りそのものが善いとか悪いとかは言えません。善悪は「関係性」です。だからこそ、積極的に「善の関係」を創っていくことです。
 牧口先生は、獄中にあっても対話を続けられた。「悪いことをするのと、善いことをしないのは同じか違うか」。こういう質問を、違う獄房の人にも聞こえるように言って考えさせたと言うのです。普通なら、「悪いことをする」よりは「善いことをしない」ほうが、まだましと考えるでしょう。悪いこともしないが、かといって善いこともしない──それが、多くの現代人の生き方にもなっている。しかし、牧口先生は「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと同じだと言うのです。
 たとえば、だれかが電車のレールの上に石を置いたとする。これは悪です。一方、それを見ながら注意もせず、石を放置した人がいるとする。この人は、自分ではたしかに悪いことはしていないかもしれない。しかし、善いこともしなかった。そのため、結果として、もしも電車が転覆したならば、悪いことをしたのと同じだと言うのです。悪を放置し、悪と戦わなければ、それ自体が悪なのです。
 ここから牧口先生は「積極的に善をなす」人生を教え、みずからも実行された。しかも、小乗を積み重ねてもだめだと。「チリが積もって山となるというが、実際にチリが積もってできるのは塚くらいである」(『牧口常三郎全集』10,趣意)──牧口先生の表現は面白いね(笑い)。また的確です。
 ″山は地殻変動によってできるのだ。人間と社会の根底から変革していかなければ、間に合わない。それが大善であり、法華経を弘めることである″と結論されたのです。
11  斉藤 「悪と戦わないのは、悪をなすのと同じだ」ということですね。この思想は、自分以外のことに無関心に生きている現代人に対する鋭い警鐘であると思います。
 池田 アメリカの人権運動の闘士、マーチン・ルーサー・キング牧師の闘いもそうでした。″悪を、おとなしく受け入れる者は、悪を助ける者と同じく悪に加担することになる。悪に抵抗しない者は、悪に協力したことになるのだ″と。(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波文庫、参照)
 須田 何回かアジアの各国を訪問させていただきましたが、牧口先生の説く「積極的人生」が強く人々を引きつけていることを感じます。
 とくに、世界的に何が善で何が悪かということがはっきりしなくなっています。そういうなかで、「積極的に善を創造していく」という仏法の行き方こそ光明だと思います。
 池田 その通りです。イデオロギーが崩壊した「哲学なき時代」を、エゴが野放しになる危険な時代にしてはならない。古い哲学の廃墟の上に、冷たいニヒリズム(虚無主義)を君臨させてはならない。確固たる「生命の道」を示し、希望の太陽を君臨させなければなりません。
 善と悪については古今東西、さまざまな哲学的議論がある。それをたどることは今はしないが、ともかく「生命こそ目的であり、生命を手段にしてはならない」。
 これが大前提です。その尊極の生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。生命を萎縮させ、手段にするのが悪と言えるでしょう。また「結合は善」「分断は悪」です。
 ゆえに最高善は、人々の仏界を開くことであり、人々の善意を結びつけることです。仏法を基調とした平和・文化・教育の運動、すなわち広宣流布の運動こそ最高善なのです。この行動の持続に、悪をも善の一部にしていく「善悪不二」のダイナミックな実践があるのでです。
 自分を見つめ、自分と格闘しながら進むのです。自分に勝利して進むのです。その人が提婆品を読んだことになる。釈尊と提婆達多との激闘といっても、つまるところ、我が身一身に納まるのです。そう読むのが文底の法華経です。
 タゴールの美しい言葉があります。
 「なぜ悪が存在しているかという問いは、なぜ不完全なものが存在しているのかという問いと同じである」
 「われわれが本当に問わねばならないのは、この不完全は最終的な事実なのか、絶対的、究極的な悪なのか、ということである。河には両岸があるというだけなのであろうか。つまり両岸は川の水にとってたしかに制限である。しかし、川には両岸があるというだけなのだろうか。つまり両岸が川についての最終的な事実なのだろうか。両岸という制限があるからこそ川の水は前に進むことができるのではないか」(「サーダナ」美田稔訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)
 要するに──悪は河における岸のごときものである。岸は流れを堰きとめるが、それは流れを推し進めるよすがとなる。この世の悪は、人間を水の流れるごとく善に向かわしめるために存在する──」と。
 悪との「限りなき闘争」を続けながら、いよいよ水かさを増して、世界に「善の大河」を広げていきたいものです。

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