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日蓮大聖人・池田大作

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見宝塔品(第十一章) 「人間を手段にす…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  すべてを結合させる「慈悲」の力
 斉藤 そこで、この「権力の魔性」ですが、これだけでも何回も論じなければならないテーマです。
 池田 その通りです。「権力悪」とは何か──これは二十一世紀を考える上でも根本的問題です。なぜか。二十世紀とは、この「権力悪」がある意味で極限にまで肥大化した時代だからです。その代表が「ファシズム」であり「スターリニズム」です。
 遠藤 右と左の両翼という対極の立場でありながら、ともに恐怖の全体主義社会を出現させた点では共通しています。
 池田 全体主義にとっては、一切が権力者の「手段」となる。人間はそこでは「道具」にすぎない。「モノ」にすぎない。「数字」にすぎない。いな「無」にすぎない。それはナチスによる「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」、またナチスが劣等者とレッテルを貼った心身の障害者への迫害を、少しでも見れば明らかです。
 それはあまりにも残酷であるゆえに、安易に口にしたくはない。そこでは「人間」が、権力者たちが勝手に決めた基準によって「役に立つ」とか立たないとか選別されたのです。そして虐殺です。
 須田 日本軍のアジア侵略でも、狂気としかいいようのない「人間のモノ化」が行われました。
 遠藤 「権力の魔性」はいつの時代にも存在していたわけですが、二十世紀においては、それが巨大化し、組織化されたわけですね。
 池田 イデオロギーで「正当化」されもした。その上に、科学技術の進歩が、悲劇を拡大した。原爆、(ナチスの強制収容所の)ガス室などがその象徴ですが、人間の虐待を大規模に、また徹底的に行える力を人間は手にしてしまったのです。
 また科学技術そのものの本性として「一切を数量化する」傾向がある。″魂なき科学技術″は「人間のモノ化」に拍車をかけます。「原爆」は「権力の魔性」の象徴です。「魔王」が形になったようなものです。「魔」とは「奪命者(命を奪う者)」という意味なのです。その反対が「仏」です。「命を蘇生させる者」です。
 斉藤 「核兵器を使った者は魔ものであり、サタンである」との戸田先生の原水爆禁止宣言は、そういう生命の洞察に裏づけられていたわけですね。
 池田 戸田先生は、全生命で宇宙に瀰漫する魔と戦っておられたのです。戦いは壮絶でした。その苦痛、その緊張感は、だれにもわからないでしょう。普通なら、病気になるか、死ぬか、自殺するか、精神に異常をきたすか──それくらい、生命への猛烈な圧迫があるのです。
 原爆は「無明」が形になったものと言いましたが、それは「人間不信」と「人間憎悪」が形になったものとも言える。哲学者のマックス・ピカート博士でしたか、原爆は「分裂する世界」の象徴と論じていました。
 (「もろもろの原子を結合して原子世界を成立せしめていた力が、いまや一つの世界を爆破し粉砕するために利用されるのである。原子爆弾が、今日、この時代に──万事を分裂することによって生き、且つそのために死につつあるこの時代に──発明されたのは、決して偶然ではない」(『われわれ自身のなかのヒトラー』、佐野利勝訳、みすず書房))
 「権力の魔性」は「分裂」させます。人と宇宙、人と人、国と国、人と自然を「分断」させます。
 反対に、「慈悲」はそれらを「結合」させます。そして宇宙そのものに「結合させる慈悲」がある。
 宇宙そのものが本来は慈悲なのです。その意味で、宇宙は仏と魔との戦いの舞台です。「権力の魔性」と「慈悲」との戦いです。「生命を手段にする」欲望と、「生命を目的とする」慈愛との闘争です。人間を砂粒化し、「無」化していく力と、人間を宝塔化する力との、せめぎ合いなのです。
10  斉藤 お話をうかがって思い出すのは、有名なカントの「尊厳」の定義です。カントによれば、人間は「尊厳」である。それは「人間は、けっして、目的のための手段にされてはならない」ということだと。(『道徳形而上学の基礎づけ』篠田英雄約、岩波文庫、参照)
 遠藤 カントと言えば、もう一つ思い出すのが「それを考えること屡々にしてかつ長ければ長いほど益々新たにしてかつ増大してくる感嘆と崇敬とをもって心を充たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳的法則とである」(『実践理性批判』波田野精一・宮本和吉訳、岩波文庫)という言葉です。
 「宇宙」と「内なる法」ですね。これが不二であるというのが仏法です。ゲーテの″内がそのまま外なのだ″に通じます。しかも、これがともに「慈悲の法」であるというのですね。すべてを「結合」させる力というか……。
 池田 冒頭、話の出たカズンズ博士も「わたしは宇宙の秩序と道徳の秩序とのあいだに区別を認めない」(前掲『ある編集者のオデッセイ』)と言われています。
 「わたしはこの宇宙の秩序を包含したり、命令したりはできないが、この秩序に同化できる。なぜならわたしはその一部であるからだ」(同前)とも。カズンズ博士は、お会いしてすぐ、「この人は菩薩だ」と直感しました。偉大な方でした。
 須田 被爆した女性たちの治療に奔走されたり、ナチスの″実験モルモット″にされたポーランドの女性たちの心身を癒すために尽力されたことは有名です。
 池田 本当に「権力の魔性」は残酷だ。その反対が「一人の人を、かけがえのない存在として愛する」ということです。そのために尽くし、そのために苦しむ。そのことを自分の喜びとする生き方です。
 ナチスの強制収容所からの″生還者″である心理学者フランクル博士については、この座談会の冒頭でもふれましたが、ここでふたたび取り上げたい。博士は、講演でこんな話を紹介しています。あるお母さんの手紙の一節です。
 「私の子供は、胎内で頭蓋骨が早期に癒着したために不治の病にかかったまま、一九二九年六月六日に生まれました。私は当時十八歳でした。私は子供を神さまのように崇め、かぎりなく愛しました。母と私は、このかわいそうなおちびちゃんを助けるために、あらゆることをしました。が、むだでした。子供は歩くことも話すこともできませんでした。でも私は若かったし、希望を捨てませんでした。私は昼も夜も働きました。ひたすら、かわいい娘に栄養食品や薬を買ってやるためでした。そして、娘の小さなやせた手を私の首に回してやって、『お母さんのこと好き? ちびちゃん』ときくと、娘は私にしっかり抱きついてほほえみ、小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。そんなとき私はしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです」(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。
 これが「人間を手段化する」権力の魔性と対極の姿でしょう。
11  斉藤 宝塔品の深い意味が少しわかってきたように思います。
 池田 権力の魔性を、もっと身近なことで言えば、リーダーが「人に苦労を押しつける」というのもその一つです。自分が楽をして、いやなこと、大変なことは人にやらせる。「責任」も人に押しつけ、自分は甘い汁だけを吸おうとする──。
 こんな言葉があります。
 「どんな国にも大変なことはある。もし、あなたが大統領であれば、大変なことは君自身にふりかかってくる。しかし、もしも、あなたが独裁者ならば、あなたはこの大変なことを他の人々にふりかかるようにできる」(Don marquis, The Lives and Times of Archy and Mehiabel, Doubleday, Doran and Company, inc., New York, 1942)
 「指導者」と「独裁者」は違う。指導者というのは、自分が皆のために苦しんでいく人なのです。
 大聖人は「元品の無明」は「第六天の魔王」と顕れ、「元品の法性」は「梵天・帝釈等」と顕れると言われている(御書九九七ページ)。
 魔王は独裁者。梵天・帝釈は指導者です。両者の違いは決定的です。「天地雲泥」と言える。一方、一念の世界においては、「紙一重」とも言えるのです。
 斉藤 私たち皆が、気をつけていかなければなりませんね。
 こうしてみますと、冒頭、話していただいた「人間の無力感」も、現代社会が人間を「機能」だけで見たり、「手段」としてしか見ないことが大きな要因だと思われます。
 遠藤 子どもも、ただ「成績」だけを基準に「序列化」されることは、たまらないでしょうね。かけがえのない存在として受けとめてくれる場所が本来は家庭のはずなのですが、家庭までが、成績という「部分」をもって、子どもの「全体」を測ろうとする傾向がある。これでは子どもが本当の意味での自信──「何があっても自分は自分だ」という強さをもてなくなってくるのも当然かもしれません。
 池田 そう。生命に序列はつけられない。だからこそ「尊厳」なのです。
 子どもにも大人にも「無力感を感じさせない」ための教育を与えていく。心の滋養を与えていく。そして連帯していく。これが現代の根本的要請です。
 その意味で、万人に向かって、「あなたこそ宝の塔なのです」「かぎりない力を秘めているのです」と呼びかける宝塔品は、豊かな示唆を与えてくれているのではないだろうか。
 あらゆる「権力の魔性」と戦い続けることこそが「法華経を持つ」ことであり、その人間愛の苦闘によってこそ、我が身が、真に「宝塔」と輝くのです。
 我が生活が、永遠を呼吸する「虚空会」に連なるのです。瞬間瞬間が、生きる歓びのエネルギーに彩られてくるのです。

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