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日蓮大聖人・池田大作

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法師品(第十章) 法師──民衆の中に生…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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8  慈悲・忍耐・智慧の修行
 須田 「衣座室の三軌」について語っていただいたわけですが、如来の部屋にいて、如来の衣を着、如来の座に坐す法師とは、まさに「法師が如来に等しい」ということを言っているとも考えられます。
 「如来の使」ということも、その振る舞いが、そのまま仏の振る舞いと見なされるということではないでしょうか。一国の「大使」が、その国の意思を体現するのと似ています。
 池田 そうとも言えるね。
 斉藤 また、この三軌は、法華弘通の大願に生き抜くなかで、法師に具わる「仏の徳」を表現したものではないでしょうか。
 池田 それも考えられる。大聖人は「衣座室とは法報応の三身なり空仮中の三諦身口意の三業なり」と仰せです。
 「法報応の三身」とは仏の徳です。簡潔に言えば、真理と智慧と慈悲です。その徳が具わるのです。
 また「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり」(同)とも仰せです。題目を唱え弘める修行によって、「仏の徳」が具わるのです。
 信心の「一念」に、徳が成就するのです。特別な力などなくともよい、妙法を唱える歓喜、妙法を語れる歓喜に燃えていることが、一番大事なことです。その歓喜の信心に「衣座室の三軌」は含まれるのです。慈悲・忍耐・智慧の徳が含まれているのです。
 斉藤 法師品で「一念随喜」が強調されています。妙法を聞いて随喜するだけで、すべての衆生が成仏できるとまで説かれています。
 また「是の人(=法師)は歓喜して法を説かんに、須萸も之を聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得んが故なり」(法華経三五九ページ)とあります。
 阿耨多羅三藐三菩提とは仏の悟りです。法師が歓喜して法華経を説く。それをわずかの間でも聞けば、それが出発点となつて必ず成仏できる、と。
 池田 法師自身が、法華経を聞いて歓喜の心を起こした人です。その法師が説いた法華経を他の人が聞いて、歓喜の心を起こす。その「歓喜」と「歓喜」の連鎖の中に、滅後の「成仏の道」があるのです。
 大聖人は仰せです。
 「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一たい・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」と。
 これを、そのまま行動しているのが創価学会なのです。
 斉藤 先に、「哲学なき時代」に、「精神の指導者」として社会を照らすのが「法師」であると言われました。創価学会は、民衆自身がこの法師です。すばらしいことだと思います。
 遠藤 多くの既成宗教では、弘教するのは実際的には聖職者です。また大集会や、アメリカではテレビ番組を通しての布教も盛んなようです。
 これに対し学会は「民衆による民衆のための弘教」です。また座談会をはじめとした少人数の集いが中心であり、一対一の対話がベースになっています。ここに「二十一世紀の宗教」の弘教の在り方があるのではないでしょうか。
 須田 そういえば、国際宗教社会学会のブライアン・ウィルソン元会長は、池田先生との対談(「社会と宗教」『池田大作全集』第6巻)の中で、こう述べています。
 「個人的な触れ合いは(中略)たしかに最も効果的な布教の方法であるように思われます」
 「いまの世の中では、誰もが、たとえば広告などについては冷笑的な見方をするようになっていますが、そうした中にあっては、個人的な誠実ということそれ自体が、きわめて爽やかなものとなりえます。その結果、伝えられるべき事柄は、たとえそれが比較的無知な布教者によるものであっても、技術的には巧みでその実まったく権威ぶった情報しか伝えないマス・メディアの広告などに比べて、より十分に伝達されるのです」
 池田 そう、「誠実」だね。口べたでもいいのです。誠実が相手に伝わればいいのです。戸田先生はよく「折伏すれば、信用が残るよ」と言われていた。
9  悪世に妙法を弘める人が尊い
 遠藤 こうして「法師」について学びますと、まさに「慈悲」ゆえに、あえて悪世に生まれてきたことがわかります。
 池田 法師品に、この人は「生ぜんと欲する所に自在」(法華経三六〇ページ)とある。願ったところに生まれてくると言うのです。
 大聖人は、成仏した生命は九界の世界に、たちまちのうちに戻ってきて、自在に衆生を救っていくと述べられている。
 (「滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」)
 私どもは、あえて、苦悩の世に生まれてきたのです。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」と、大聖人は仰せです。
 大聖人のお心を拝して、広宣流布のために生きている学会員は、「法師の中の大法師」です。そして、一回の人生を終えても、「須萸の間」に、また生まれてくるのです。
 今世を戦い切って、霊山に行って、息をはずませ報告する。「大聖人様! 立派に使命を果たしてきました!」
 大聖人は「ご苦労。よく頑張った。さあ次は、どこへ行くつもりか」と(笑い)。
 「少しぐらい休みたい」と思う暇もない(爆笑)。
 また、休みたい人は休んでいいのです(笑い)。自在なのです。
 「自在神通の慈悲の力」とある通り、慈悲ゆえに「須萸の間に」また使命の庭に元気いっぱい戻ってくるのです。きょう寝て、あす目がさめるようなものです。
 須田 衆生を慈しみ、愍むゆえに、「願って」悪世に生まれてきた──妙楽大師は、そのことを「願兼於業(願いが業を兼ねる)」(『法華文句記』)と呼びました。
 法師は本来、仏道修行の功徳によって善処に生まれるところを、願って悪世に生まれ、仏法を弘通するということです。
 池田 戸田先生も、「初めから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていた。
 また、「戸田は妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。
 苦労もない、悩みもないというのでは民衆の心がわかるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ人々を救うことができるのです。
 自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは後ろ向きになる。それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
 願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。
 斉藤 大聖人は法師品の「大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず」(法華経三五六ページ)および「衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広くこの経を演ぶ」(法華経三五七ページ)の二つの文について「御義口伝」には「大願とは法華弘通なり愍衆生故みんしゅうじょうことは日本国の一切衆生なり生於悪世の人とは日蓮等の類いなり広とは南閻浮提なり此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり」と仰せです。
 まさに妙法を世界に弘めている学会員こそ、無量の福運を積み、広宣流布するために生まれてきた御本仏の本眷属なのですね。
 池田 だから尊貴なのです。だから、互いに尊敬すべきなのです。
 冒頭、インドの話が出たが、インドの国父、マハトマ・ガンジーは言っています。
 「私がもし生まれ変ることがあるならば、不可触賎民として生まれてきたい。悲しみや苦痛や彼らに与えられた侮蔑を分かち合い、みずからと不可触賎民をその悩める境遇から救い出すように努めるために」(Yuung India, 27-4-1921 & 4-5-1921, ″The Collected Works of Mahatma Gandhi″ Publications Division, Ministry of Information and Broadcasting, Goverment of India)
 この心は「願兼於業」に通じると思う。慈悲です。「ともに生きる」ということです。
 いちばん苦しんでいる人の中に生まれてくるのです。
 いちばん苦しんでいる人の中に仏はいるのです。
 いちばん苦しんでいる人を、いちばん幸福にするために仏法はあるのです。
 法師品は、民衆のために、民衆とともに生きる「精神の指導者」の崇高な心意気を教えているのです。

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