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日蓮大聖人・池田大作

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授記品(第六章) 授記──万人を「絶対…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  遠藤 成仏が、そこから先は何もない「完成」だったら、かえって、つまらないでしょうね(笑い)。
 池田 成仏の「軌道」に入れば、そこで出あう嵐も、吹雪も、木枯らしも、もちろん春風も、青空も、太陽も、すべて心から楽しみきっていける。
 「生」も楽しい、「死」も楽しいという無上の境涯。その永遠の充実、永遠の希望を約束する「軌道」なのです。「一生成仏」「即身成仏」の、限りない連続とも言える。
 遠藤 その究極が「難来るを以て安楽と意得可きなり」との大聖人のご境涯ですね。
 池田 そうだと思う。「三類の強敵」「三障四魔」。これらの難は、「あなたの進む道に間違いはありませんよ」「これを乗り越えれば必ず仏になれますよ」という最高の保証です。
 難があるから今、進んでいる広布の道が正しいとわかる。生々世々、仏の軌道に入っていくと確信できる。最高の励みです。
 ゆえに信心の眼でみれば、「難」もまた「授記」なのです。仏道修行の″卒業試験″とも言えるだろう。「三類の強敵」が競い起こった時こそ、じつは、成仏の「軌道」に入るチャンスなのです。入れば、永遠に仏です。
 斉藤 これまで、漠然としていた「授記」の深い意味が明快になりました。
 池田 人類にとって、正しき「軌道」が必要です。
 「われわれは、曲がりくねった道を無謀な速度で車を運転しており、いまにも大惨事を招く危険を冒しています」(「二十一世紀への警鐘」『池田大作全集』4収録)と。
 十年ほど前にペッチェイ博士(ローマクラブの創設者)と語り合った際、博士と私の現代文明の危機をこう指摘されました。
 私も「怖さを知らない若者が、速度を増せば増すほど喜んで、自動車のアクセルを強く踏むようなものです」(同前)と率直に申し上げ、博士と私の認識は一致しました。
 遠藤 われわれは、どこへ向かっているのか。どこへ向かうべきなのか。「確たる軌道」がないまま、予測できない暗闇に向かって、今も暴走し続けている。それが現代の人類なんですね。
 池田 博士と語り合った十年前から、状況は一向に良くなっていない。良く変えようという「気力」さえ、ますます失われてきている昨今ではないか、と私は憂える。
 斉藤 原因は、やはり、人間を″置き去り″にしてきたからではないでしょうか。
 機械は進歩した。性能もアップした。スピードも増した。それらの粋を集めて文明社会という″車″をつくったのに、運転する「人間」自身が未熟なままなのです。だから、子どもが車を暴走させて喜ぶような状態になっている……。
 池田 その通りです。どうすれば、暴走を減速させ、人類を正しい方向に向かわせることができるか。「人間革命しかない」。これが博士と私の結論であった。
 「人間自身」が、変わらねばならない。「正しい方向を目指す人間」をつくろう。そうした人間が社会に広がれば、社会の方向も変えられるはずだ、と。
 博士は言われた。「人間革命こそが、新しい進路の選択と、人類の幸福の回復を可能にする積極的な行動の鍵なのです」(同前)と。
 「正しい方向を目指す人間」を開発するのが仏法です。「正しい方向」とは「自他ともに幸福になる」ことでしょう。その方向への「確かなる軌道」へ、自分も入り、人をも入らせていく──この″生命の触発作業″が、「人間革命」の運動です。また仏法を基調にした平和・文化・教育運動です。これらは広い意味で、法華経の「授記」の精神に通じている。
10  座談会は楽しき「授記の広場」
 須田 そうしますと、座談会のもつ意義は、ますます大きいですね。座談会こそ「人間革命の広場」「生命の触発作業の最前線(フロンティア)」ですから。
 池田 そこです、強調したいのは。
 牧口先生は「大善生活実験証明座談会」と名づけました。「大善生活実験証明」とは、妙法を根幹にした「信心即生活」の素晴らしさ、社会と人々に尽くす「人間革命」の生き方を、だれにも納得できるよう、事実の姿で示そうということです。学会の座談会は、その発祥の時点から、広々と民衆に開かれている。
 遠藤 学会が何をしているか、なぜ発展したかを知りたければ、続けて座談会に出て研究すればいいんですね。「実験はうまくいってますか──」と。(笑い)
 池田 学会の座談会は、社会に「智慧」と「活力」を送る草の根の広場です。
 功徳の体験を聞いて決意する。「よくぞ戦い、よくぞ打ち勝ったな。そうだ、私も宿命転換できるのだ。私も頑張ろう!」。
 奮闘する友をたたえる。「この人のように、この人を模範に、私たちも成長しようではないか」と。
 それが一生成仏への励みになり、広布への使命感を呼び起こす。これこそ、授記と同じ効果でしょう。その意味で、座談会は、仏子に励まされ、仏子を励ましゆく「授記の広場」とさえ言えるのではないだろうか。
 須田 さきほどの、広布功労の同志への顕彰も、同じ意義ですね。
 池田 そう。″たたえる″心が″たたえられる″自分をつくるのです。もう一つ言っておこう。
 牧口先生が逮捕(一九四三年七月六日)されたのは、座談会に出席するために訪れた伊豆の下田であった。そのころ、座談会は特高刑事が監視するなかで開かれ、神札問題等で何度も圧迫を受けながら、先生は一歩も退かれなかった。座談会は、権力に対する精神闘争の熾烈な″戦場″でもあったのです。
 また大聖人の宗教改革の闘争も、今の「座談会」とも言うべき対話の集いから始まったと見ることができる。
 斉藤 大聖人ご流罪中、門下の人々は、大聖人からのお手紙を寄り合って読み、大難を乗り越えていきました。その励まし合いの集いも、座談会だと思います。
 池田 このように座談会の「伝統」には、大聖人以来、牧口先生、戸田先生以来の「偉大なる闘争の精神」が込められている。その精神を満々とみなぎらせて、一回一回の座談会を、楽しく、明るく開きゆく意義は、どれほど大きいか。
 道なき現代に、人類の幸福への「確固たる軌道」を切り開いていく。この生き抜く「強さ」「明るさ」を、大座談会運動から脈動させたいのです。
 「あなたの心」へ! 「あの友の心」へ!──と。

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