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日蓮大聖人・池田大作

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信解品(第四章) 信解──「信仰」と「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  法華経の「信」──以信代慧
 須田 話題が法華経に戻りますが、法華経に説かれる「信」には、「信解(アディムクティ)」のほかに、サンスクリットで「シユラッダー」と言われる「信」があります。
 「シユラッダー」の「ダー」は「置く」という意味の語に由来するとされ、「シユラッダー」は「信を置く」「信を起こす」という意味になります。そこで、仏道修行の最初に位置づけられるのです。仏典よりも古い時代の『ヴエーダ』(バラモン教の聖典)などでは「好奇心をもつこと」「焦がれ求めること」という意味で用いられています。
 宗教的な感情の源泉として″驚き″があるとされますが、″驚き″がもつ、対象への畏怖や好奇心などの心情が「シエラッダー」の意味合いとしてあります。自身にとって思議の及ばないものへの″敬虔な心″です。この″敬虔な心″をもてずに欲望に駆られているのが「イッチャンティカ」すなわち「一闡提」です。
 斉藤 この「シエラッダー」の信を起こし、仏道修行していくと、その不可思議であったものを体得する智慧が磨かれ、悟りと功徳へと進むわけです。
 遠藤 ですから華厳経では、「シュラッダー」の信を「道の元」「功徳の母」と位置づけています。また法華経で説かれる「以信得入(信を以て入ることを得たり)」(法華経一九八ページ)の信も、この「シエラッダー」です。御書には「信を以て源とす」とあります。
 池田 仏法の「信」とは、理性を振り捨てて盲目的に帰依するというような「狂信」では決してない。敬虔な探求心を出発点として智慧を育んでいこうとする、理性的な精神の営みなのです。
 斉藤 また仏法では「信」を表す言葉に「プラサーダ」という語もあります。これは、水や声などに濁りがなく澄み渡り、輝き渡っているさまを表す言葉です。仏法を聞いて迷いがなくなり、心が浄らかで澄みわたった状態をいい、「浄信」と漢訳されます。
 この「浄信」の完成された状態は、どのようなできごとにも心が乱れずに平安を保ち、生きとし生けるものが平等であり尊厳であることを知る境地とされます。
 池田 そう。正しき「信」の効用は、心を洗い、清らかにすることです。心が清らかであってこそ智慧は輝く。
 「理性は情念の奴隷」(ヒューム『人生論』土岐邦夫訳、『世界の名著』27所収、中央公論社)であると考えた哲学者もいました。また、アウグスティメス(キリスト教の初期の哲学者)のように、「進行が理性に先立つことがある」(ハルナック編『省察と箴言』服部英次郎訳、岩波文庫)と主張した人もいました。
 それぞれの立論には違いがあるが、理性は決して自己満足という傲慢に陥ってはならないことを教えている点では共通しています。
 限りなく、現在の自己を超越していく──そこに真の理性の渇仰がある。自己の届き得ぬ高みにまで、向上し、超え続けようとする。そのエネルギーとなり、基盤となるのが、現在の自己を超えた何かへの「信」なのです。信が知を清め、強め、高めるのです。
 「浄信」は磨き抜かれた「信」であり、同時に鍛え抜かれた「知」なのです。
 須田 法華経の方便品(第二章)では、舎利弗が釈尊に対して″信じますので教えてください″と請う時に「シユラッデー」と「プラサーダ」の両面の「信」をもって信ずることを誓っています。漢訳では「敬信」と訳されています。
13  遠藤 これまで見た三つの「信」をまとめてみると次のようになるでしょう。
 ──仏法を聞き、その素晴らしさに畏敬の念を抱いて「シユラッダー(敬信)」を起こして実践に入り、「アディムクティ(信解)」を貫くことによって、心が鍛え磨かれ、だれもが平等に尊厳であると覚知する「プラサーダ(浄信)」という大境涯の完成に向かう──。
 池田 仏法の「信」は、「限りなき向上」へのエンジンです。知性を含めた全生命を向上させ、開花させ、秘めた力を発揮させていく原動力です。
 須田 ところで、これらの信とは異質な「信」があります。それは「バクティ」と呼ばれる信です。これは、神に対する絶対的な熱烈な信です。
 語源的には「わかち持つこと」「一部となること」という意味合いがあります。
 たとえば″万物の根源であり宇宙に遍満しているブラフマン(梵)と一体になる″など、自身を超越した神秘的なものとの一体化を目指し、自分らしさを殺してまでも献身的な信仰実践に突き進むものです。
 神々への絶対的な信仰を示すものとして、インドでは、しばしばこの「バクティ」という語が使われますが、仏教ではほとんど用いられません。「バクティ」という信は、仏法の信の在り方とは違うものです。
 池田 そうです。自分をなくして、大きなものに飲み込まれるのではない。
 我が生命こそ無限の宝蔵である。我が身そのものが功徳聚である。我が身が法華経である。ゆえに、崩れざる幸せは、外からやってくるのではない。すべて我が内なる生命から馥郁と薫り出してくるのです。
 仏法の信は、本当の自分の確立です。そして、宇宙大の無限の地平が自分自身の生命に開かれていることに気付くことです。宇宙に対して生命を開き、宇宙に包まれている自分が、宇宙を包み返すのです。大宇宙と交流し、交響するのです。信は、その跳躍のためのジャンプ台です。
 遠藤 法華経が仏教一般の立場よりもさらに踏み込んで信を強調している理由をどのように考えるべきかということですが……。
 斉藤 法華経においては釈尊の説法が開始された方便品で、すでに信が繰り返し強調されています。それは諸法実相・十如是が説かれた後、舎利弗が釈尊に未聞の法門を説かれるよう要請するところに表れています。釈尊は、その法門を説けば人々は驚き疑うであろうとして舎利弗の要請を三度にわたって制止します。
 しかし、舎利弗は″会座に連なった大衆は必ずその法を信じてまいります″と誓って、仏の説法を求めます。その熱烈な「信」に応えて、釈尊は一切衆生に仏知見を開き、示し、悟り、入らしめることが、仏が世に出現した目的であることを明かし、開三顕一の法門を本格的に説いていくのです。
14  池田 その通りです。法華経の説法自体が、「信」を大前提にして開始されていくのです。
 遠藤 方便品の説法を聞いて、声聞の中で初めに成仏の悟りに達した舎利弗も、自分の智慧ではなく、信によって仏の悟りの世界に入ることができた(以信得入)とされます。
 『大智度論』に「仏法の大海には信を能入と為し、智を能度と為す」と説かれるように、信から始まる仏道修行によって智慧を獲得し、その智慧の力によって「仏法の大海を度る」(成仏する)というのが仏教一般の原則です。ところが法華経では自分の智慧を強調するよりも、信によって悟ると強調されます。まさに信が智慧の代わりになっています。(以信代慧)
 池田 ここに深い意義があるのです。法華経も「智慧」即「成仏」であることは同じです。
 ただ法華経においては信の中に既に智慧が含まれている。それが「信解」です。
 大聖人は「解とは智慧の異名なり」「信の外に解無く解の外に信無し」と端的に教えてくださっている。
 信なくして解(智慧)はないし、解(智慧)として現れない信もにせものなのです。
 「解」とは「解脱」の解であり、「解放」の解にも通じる。一切の苦悩の鎖から解き放たれた自在・自由の境地。それが「解」であり、その智慧の境地は「信」によってのみ得られる、と言うのです。
 遠藤 法華経の分別功徳品(第十七章)では「其れ衆生有って、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん」(法華経五〇一ページ)と、「一念の信解」を強調しています。
 また「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀呰せずして随喜の心を起さん。当に知るべし。己に深信解の相と為す」(法華経五〇七ページ)とあります。
 妙法を初めて聞いて随喜する「初随喜」の人は、既に「深い信解」を得た姿であると説くのです。信解に成仏の実質があることを示していると考えられます。
 池田 くわしくは分別功徳品のところで論ずることになると思うが、四信五品といっても初めの「一念信解」と「初随喜」に法華経の本意があるのです。
 須田 なぜ法華経が「信」を強調するかという問題は、法華経が仏の随自意の経であるという点にカギがあるのではないでしょうか。
 池田 その通りです。随他意の教えは、文字どおり、衆生の境涯に応じて説いたものです。ゆえに、受け入れられやすい。「易信」であり「易解」です。しかし凡夫の想像も思惟も超えた仏の境涯は「難信」であり「難解」です。だからこそ「信」を強調するのです。
 大聖人は、己今当(過去・現在・未来)の経と法華経との違いについて、伝教大師の『法華秀句』の次の句を何度も引いておられる。
 「当に知るべし已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なることを随他意の故に、此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に
 随自意の経は、凡夫の境涯のワクを、はるかにはみ出しているゆえに、「智解」できない。「信解」するしかないのです。
 あたかも、宇宙ロケットを知らない人々に、いくら説明しても理解を絶しているように、生命の宇宙を自在に遊戯する妙法という秘術は、凡夫の思議を超えている。だからこそ強い「信」の力によって、妙法の軌道に乗る以外にないのです。
 その「信」は盲目的なものではなく、文証・理証・現証に基づくものです。
 牧口先生は、こう言われている。
 「われわれは、医学の知識がなくても、医者を信用することによって病気を治すのである。そのさい意識的にせよ、無意識的にせよ、次の三条件に合致する医者を選ぼうとするだろう。
 一、学歴や肩書や専門等を考えるのは文証にあたる。
 二、その医者が多くの病人を現に治しているかどうかは、さらに大事な条件であって、これが現証である。
 三、しかもその治療法は、医学上、合理的なものであることが納得できるならば、もはや何の不安もない。これが道理、すなわち理証である」
 遠藤 なるほど、こういう日常レベルでも「以信代慧」はあるし、「三証」もあるわけですね。まさに一切法即仏法ですね。
15  池田 法華経が「信」を強調する理由を、生命の次元でいえば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち「元品の無明」を断ち、「元品の法性」すなわち″本来の自己自身を知る智慧″に目覚めることにある。この法性を″仏性″″仏界″と言ってもよいでしょう。
 ところが、これは生命の最も深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて″仏性″″仏界″は、自身の生命に顕現してくるのです。
 大聖人は「此の信の字元品の無明を切る利剣なり」と仰せです。「信」は「開」であり、「疑」は「閉」です。
 妙法に対して自身を開けば、妙法が自身に開かれるのです。だからこそ「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人「三重秘伝抄」)なのです。「信」も仏界、その結果の「智慧」も仏界です。
 宇宙の根源の「法」を、その宇宙の一部である人間の小さな頭でつかむことはできません。その「法」が自身の生命に顕になるように、心身を整える以外にないのです。
 そのための妙法への「信」であり、「帰命」です。大聖人は「信は不変真如の理なり」「解は随縁真如なり」と仰せです。帰命でいえば、信は「帰」、解は「命」です。
 妙法を信じ、妙法に「帰する」ことによって、妙法が自身の上に顕現し、妙法に「命く」生命となるのです。妙法が躍動する生命になった証が、随縁真如の「智慧」であり、信解の「解」です。
 「信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」と仰せの通りです。
 その意味で、信と解は対立するものでないことはもちろん、信が解を支えるというだけの静止的なものでもない。
 本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める「解から信へ」──この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが「信解」の本義といえるでしょう。
 そう考えれば、梵語の「アディムクティ」が「志」とも訳せることは興味深い。成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯──--それが仏界です。人間としての限りなき向上へ。その「志」に進む両輪が「信」と「解」なのです。
 斉藤 現代の世俗的社会では、「信仰」というと「理性」を休眠させ、閉ざされた主観の世界に安住するというイメージがあります。しかし、法華経の「信解」は全く違うことが、よくわかりました。
 池田 そう。法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」と「解」という、″生命探究の二つの武器″を握りしめて、限りなく問い続け、限りなく向上していく。そのエネルギーを与えてくれるものなのです。
 近代の「知」は「信」と分離することで″自立した″と錯覚した。しかし、じつは、物質主義をはじめ″検証なき信(自明の前提)″の上に安住する場合が多かったのではないだろうか。そこから近代の苦悩と流転が始まった。
 今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき「信と知の統合」です。それは壮大な文明的挑戦です。「信念なき知識」と「理性なき狂信」に引き裂かれた人間社会を復興させる試みです。
 また、生命という″親″のもとに、″放浪の息子(近代の知)″が帰還する物語ともいえる。
 「信解」。それは、現代という「精神の漂流時代」を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させていくキーワードと言えるのではないだろうか。

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