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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) かけがえのない個々の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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8  民衆救済に「戦う心」
 斉藤 考えてみれば、釈尊が「諸法実相」の法を説いた元意も、そうした奮闘を呼びかけるものだったのではないでしょうか。釈尊自身が、その先頭に立って戦った。
 方便品には「私は、仏眼をもって六道(地獄界から天界まで)の衆生を見た。彼らは貧窮し、福運も智慧もなく、生死の苦悩の険しき道に入って、絶え間なく苦しみ続けている。(中略)さまざまな誤った思想に深く染まり、苦を捨てようとしながら、そのことでまた苦しんでいる。こうした衆生のことを思うと、大悲の心が起こってきた」(法華経一三九ページ、趣意)とあります。
 池田 「大悲」の「悲」とは、「同苦する」ということです。ともに苦しむ「うめき声」が、その原義とされる。すべての衆生を、何としても苦悩の″鉄鎖″から解放したい。そのために釈尊は悩み、戦ったのです。
 方便品には「我濁悪世に出でたり」(法華経一四二ページ)とある。闘争へ踏み出す釈尊が、心に叫んだ第一声です。偉人は嵐の中に立つ。乱世に挑んでこそ偉大な人になるのです。そして偉人が嵐と戦う胸中には、次の世代への慈愛が海原のごとく広がっている。
 厦門アモイ大学の学生が、平民学校の開校式の会場に向かう魯迅に言った。
 「『あなたのそばにいると、ほんとうに大海の傍にいるのと同じように、気持がすっきりします」。
 「いや、ほんとうの大海は、見たまえ、あすこにある」。
 元気よく講堂に入って行く、善報の労働者の子供たちを、魯迅は指さした。」(前掲『魯迅の生涯』)。
 遠藤 大海といえば、古来、法華経も「大海」に譬えられました。
 池田 そう。大聖人は「大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり、如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす」と仰せになっている。
 部分に全体が含まれている。一人の存在に、一切の宝がある。一人の行動から、無限の価値創造のドラマが始まるのです。
 斉藤 ホワイトヘッド(イギリスの哲学者)も、自然は″ものの集合″ではなく″できごとの連鎖″であるとした哲学者ですが、こう言っています。
 「生命とは、環境の諸条件が許容する完成を目指すものとしてのみ理解される。しかし、このねらいは、常にすでに達成された事実を常に超えている」(『観念の冒険』山本誠作・菱木政晴訳、『ホワイトヘッド著作集』12,松籟社)。つまり、生命は可能な限り、どこまでも完成を目指すと言うのです。すでに達成された現在を、常に乗り越えていこうとするのが生命なのだ、と。
9  池田 そうかも知れない。生命は、物理学的な因果律に支配されるだけの単なる機械ではない。もちろん物質でできている以上、生命体に″機械の側面がある″のは当然である。しかし″機械にすぎない″のではない。
 生命は本来的に、″価値を創造しよう″という要求をもっている。価値も「関係性」の概念ですが、「関係の織物」であるこの世界にあって、常に「よりよき関係」すなわち「より大きな価値」を創造しようとしている。より美しい織物(美)、より役に立つ織物(利)、より善なる織物(善)を織ろうとする。この「創価(価値創造)作用」に、生命の大きな特色があることは確かだと思う。
 その意味で、「戦い」こそが「生きている」証です。″すでに達成されている現在″を常に超えていく──十界互具という実相から見れば、生命は、現在、いかなる姿をとっていても、今の自分を超えて最大の完成を目指そうとしている。
 生命の本然の姿は、仏界という完成へと向かっているのです。「合掌向仏(一切衆生は根底で仏に向かって合掌している)」です。こういう実相を示しているのが諸法実相であると思う。ここに、いかなる生命もかけがえのない存在であることが示されているのではないだろうか。
 この「法華経の心」を叫びきって戦われたのが日蓮大聖人であられる。近代においては大聖人直結の牧口先生、戸田先生です。
 今年(一九九五年)は、学会創立六十五周年。一人一人の民衆に「あなたのかけがえのなさ」を教え続けた六十五年であった。そのために、民衆蔑視の勢力と戦い続けた六十五年であった。
 牧口先生が獄死された後、戸田先生は獄中にあって、一詩を詠まれた。
 「如意の宝珠を我もてり
 これでみんなを救おうと
 俺の心が叫んだら
 恩師はニッコと微笑んだ」
 須田 池田先生が、小説『人間革命』(第一巻「一人立つ」の章)で紹介してくださいました。
 池田 そう。「如意の宝珠」とは一念三千であり、御本尊です。「宝珠即一念三千なり」と御書にはある。
 一念三千の信仰とは、自分一人いれば、すべてを変えてみせるという大確信ともいえる「一人立つ」信心です。
 いよいよ、一人一人が、妙法の無限の力を満身に漲らせて立つ時代です。その一人の中に、学会という全体がある。その一人の中に、二十一世紀がある。
 ゆえに一人ももれなく、「私はこの世に、このために生れてきたのだ」という、かけがえのない使命を、事実の上で果たし切ってほしいのです。
 その″戦う心″″戦い続ける心″自体が、すでに″勝った心″であり、本門の十年を絢爛と飾りゆく原動力なのです。

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