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日蓮大聖人・池田大作

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方便品(第二章) 方便──巧みなる「人…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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11  「人間教育」と仏法
 須田 かつて池田先生が、青年に対してこう語られたことを思い出します。「真の宗教性と、真の教育の精神とは、伸び伸びとした『人間全体の解放』という理想において、じつは表裏一体なのである」と(一九九〇年十一月、「創価教育同窓の集い」でのスピーチ)。
 斉藤 真の教育の心と法華経の精神とは、表裏一体であるということですね。
 牧口先生は「法華経と創価教育」と題して、こう述べられています。
 「要するに創価教育学の思想体系の根底が、法華経の肝心にあると断言し得るに至った事は余の無上幸栄とする所で、従って日本のみならず世界に向ってその法によらざれば真の教育改良は不可能であると断言して憚らぬと確信するに至ったのである」(『牧口常三郎全集』結語)
 池田 牧口先生は、ペスタロッチなどの先駆者たちが、繰り返し繰り返し訴えてきた「人間教育」の理想を、何とか根付かせたいと願われた。その「人間を幸福にする教育」の探究の結論として到達したのが、法華経だったのです。
 たとえばペスタロッチの言葉には、こうあります。
 「人類に純粋な幸福を与える力というものはすべて技巧や偶然のたまものではない。それらはすべての人間の内に、人間のさまざまな本性といっしょにひそんでいるのである。それを引きだして育てることこそ、人類共通の願いである」(梅根悟訳『隠者の夕暮』、世界教育学選集35所収、明治図書出版)
 この「人類共通の願い」を追求した果てに「教育革命」を主張され、その教育革命の実現には、法華経による「宗教革命」以外にないとされたのが牧口先生です。
 この「人類共通の願い」である教育の精神について、もう少し深く見ておきたい。
 ここに、コロンビア大学のサーマン博士(宗教学部長)のインタビュー記事があるので、冒頭のところを少し、読んでくれますか。
 斉藤 はい。アメリカSGIのボストン二十一世紀センターのニュース・レター(一九九五年)からですね。
 質問──「社会における教育の役割について、教授はどのような考えをもっておられますか。また、この点につき、教授の考えに影響を与えたものは何ですか」。
 こう答えておられます。「私は、むしろこの質問は『教育における社会の役割は何か』であるべきだと思います。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると私は見ているからです……」
 池田 ありがとう。まだ答えは続くけれども、私は、この一言に感動したのです。
 博士は、質問のしかたが違うと言われている。「社会における教育の役割は何か」ではなく「教育における社会の役割は何か」と問うべきだと。ここには、博士の透徹した人間観がにじみ出ている。
 つまり「教育は、社会の一部分ではない。社会から派生したものでもない。教育こそが、最初から人間とともにあり、人間の最も根元的な営みである」という見方です。
 「人間」とは「教育」を離れてありえない存在なのだと。だからこそ「師弟」が、根本の大事となるのです。
 須田 この場合の教育は、機構や制度としての教育より、もっと深く、広い次元ですね。
 池田 そう。博士は「教育が、人間生命の目的である」と述べられている。言い換えれば──人間は何のために生まれたのか。何のために生きるのか。それは「教育によって、生命の可能性を極限まで開くため」である、ということでしょう。その究極が(仏知見の)開示悟入です。
12  斉藤 博士は続いて、こうも語られています。
 「私のこのような考えに影響を及ぼしているのは、仏陀の教えです。私の認識では、仏教は、最も真実の意味において教育的な教えです」
 「仏教は本来、宗教伝道の運動ではありません。むしろ宗教的な側面をもった教育運動です」と。
 池田 鋭い洞察だと思う。
 人間教育と仏法は表裏一体なのです。ゆえに、牧口先生は教育から出発して法華経に至り、私は法華経を根底に、教育・文化運動を繰り広げているのです。
 「仏教は教育運動」ということを、「方便」との関連で言えば、こうなるだろうか。
 すなわち、みずからの仏性を開くという「自己教育」を根本にして、同時に、さまざまな智慧を湧かせ、さまざまな方便(方法)を使って、人々の仏性をも開いていく運動であると。この、自他ともの「人間開発」「人間教育」にこそ、人間としての最高の軌道があるのではないだろうか。
 遠藤 そうしますと、成道した釈尊が逡巡の末、苦悩に沈む人々に正法を説こうと立ち上がった瞬間、いわば「方便」の出発点であるあの瞬間に、人間本来の生き方が凝縮されているといえるのではないでしょうか。
 池田 そうだろう。釈尊の成道後の生涯はそうした瞬間の連続だったと思う。「方便」は、人を救わんとする慈悲です。智慧です。行動です。「方便」という言葉には、一切の固定化に陥らず、常に、どう、より深く、より広く、人々を救っていくかという、ぎりぎりの挑戦の心が込められているのです。
13  如我等無異──人材育成の心
 須田 学会活動も、自分の立場で、自分なりの「自己教育」「人間教育」に取り組んでいくことが大事ですね。
 池田 そこなのです。弘教はもちろん、人材育成も、すべて法華経の精神にかなった実践です。また他の文化的・社会的活動も、人材を育て、仏縁を広げる方向へ向いてこそ、深い意味がある。方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」(法華経一三〇ページ)とあります。
 一切衆生を、自分と同じ境涯まで高めたいという仏の誓願です。ここにこそ、人材育成の精神、「人間教育」の精神の根本があると思う。それが「師弟」の心です。
 もちろん、自分もさらに成長していく立場ですから、″自分と同じように″というより、″この人を自分以上の人材に育てよう″という決意が「如我等無異」に通じるでしょう。
 斉藤 人を育てるどころか、″自分以上に偉い者は認めない″というのが日顕宗ですね。法華経と正反対です(笑い)。誤った宗教は、皆そうです。
 池田 後輩のために、どれだけ祈ったか、苦労したか。その慈愛と真剣さに「人間性」の真髄がある。
 学会は「人間性の組織」です。ゆえに権威でも号令でもない。「人間性」に触れる感動とともに前進していくのです。
 ロシアの民衆詩人プーシキンの詩才を育てたのも、農奴の一老婦人の人間性でした。詩人は彼女を「おかあさん」と呼び、心から信頼した。世界の人々の心を揺さぶってやまない彼の作品は、「おかあさん」から聞いた、民衆の言葉による民衆の物語が源になっている。
 また″三重苦″のヘレン・ケラーを、ハーバード大学にまで行かせたのは、サリバン先生という女性です。彼女は自身の才能や可能性の一切を犠牲にしてまで、生涯ヘレンの目となり、耳となって働いた。
 サリバン女史の晩年、ある大学から二人に名誉博士号が贈られることになった。しかし女史は断った。「愛する教え子のヘレンが名誉をうけただけで、わたくしはこの上もなくまんぞくです」(村岡花子『ヘレン・ケラー』偕成社)と。
 一度は辞退したが翌年、女史にも称号が贈られるが、その四年後、女史は亡くなる。そのとき、ヘレンは決意する。
 「先生は、自分のような者のために、その一生を捧げきって死んで行かれた。それこそ完全な奉仕の生涯である。残されたわたしこそ、その連続でなければならない」(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳〈角川文庫〉のの「解説」〈岩橋英行〉で紹介)。
 そして全世界を舞台に、彼女は、目の不自由な人たちへの救援運動を展開していったのです。
 こうした、地道な一人の婦人。生涯、表舞台に出ることのなかった一教師。「人間教育」の勇者とは、こういう人たちのことではないだろうか。
 その意味で、妙法を胸に日夜、人材育成に奮闘している学会の同志が、どれほど尊く、どれほど偉大な存在か。
 方便品に「是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり」(法華経一〇九ページ)──この法は(言葉で)示すことができない。言葉の表現は滅し尽きてしまっている(この法を示すのに遠く及ばない)──とある。
 妙法の偉大さが、言葉では表現できないと同じように、妙法に生きる人生の偉大さも、言葉では言い表せないのです。
 斉藤 ″人を育てる″ということについて、以前、先生が語ってくださった魯迅の言葉が忘れられません。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一〈東方書店〉で紹介)と。
 池田 今、私も全く同じ気持ちで、青年を育てている。諸君も、そういう人生を歩んでほしい。それが法華経を信ずる人の生き方であり、「師弟不二」です。
 そして、師と弟子が一体となって、人類を潤す人間性触発の教育運動を繰り広げていく──その闊達な社会貢献そのものが、一つの次元から言えば、仏界即九界、九界即仏界であり、ダイナミックな「秘妙方便」の行動になっているのです。

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