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日蓮大聖人・池田大作

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序品(第一章) 如是我聞──師弟不二の…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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4  「如是我聞」の意義
 斉藤 序品の冒頭の「如是我聞」の意義についても、″普遍的法華経″の観点から捉えていくことができるのではないかと思います。つまり、「如是」とは何を指すのか、″このように聞いた″中身は何かという問題です。それは一応、「法華経二十八品」を指していると言えますが、それだけにとどまりません。
 遠藤 この「所聞の法体」──″何を″聞いたのか──について妙楽大師は「二十八品全体」だと普通に解釈しました。しかし大聖人は、そのうえで、法体とは「諸法の心」であり、それは「妙法蓮華経」であると仰せです。
 御義口伝では、天台大師の「如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり」(『法華文句』)という言葉をあげて、そのことを教えられています。
 池田 大聖人は「文・義・意」という原理を示されている。
 文とは経文の文面のことであり、義とは文が指し示す教義・法理に当たる。経文の文面を見ているだけでは、この「義」までしかとらえられません。
 しかし、いかに法華経の「文」と「義」を論じても、その「心(意)」に触れなければ意味はない。大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」と仰せである。
 「法体」「諸法の心」とは、二十八品全体に脈打つ「仏の智慧」そのものです。その智慧が「南無妙法蓮華経」です。
 それを「その通りに聞く(如是我聞)」とは、「信心」です。「師弟」です。師匠に対する弟子の「信」によってのみ、仏の智慧の世界に入ることができる。「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、天台の『摩訶止観』にある通りです。
 この観点から言えば、法華経の「如是我聞」とは、全生命を傾けて仏の生命の響きを受け止め、仏の生命にふれていくことです。「如是」は、「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。全人格としての「我」が聞くのであって、単に「耳」が聞くのではない。
 また、この「我」とは、普通は、経典結集の中心者とされる阿難等です。しかし、その「心」は、末法の今、この自分自身が「我」である。自分が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の説法を、全生命で聞き、信受していくのが「如是我聞」の本義なのです。
 大聖人は「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なりされば皆成仏道と云うなり」と仰せです。
 自分の外に置いて読むのではない。すべて「我が身の上の法門」であり、「我が生命の法」であると聞くべきなのです。
 遠藤 それで明快になりました。竜樹の『大智度論』では「如是の義は、即ち是れ信なり」と言い、天台の『法華文句』では「如是とは信順の辞なり」と言っています。
 この「信」について、竜樹はおもしろい譬えを述べています。すなわち、信は柔らかい牛皮、不信は硬い牛皮で、柔らかい牛の皮は、用途にしたがって使えるが、硬い牛の皮はそうはいかないと。つまり、信ある人は仏の教えにしたがって、その通りに聞いていけるが、不信の人は、その通りに聞けないわけです。
 天台の「信順」という言葉も、意味深いと思います。この「順」について天台は「順は則ち師資の道成ず」と述べています。順ずれば、そこに「師弟の道」が成り立つ、と。
 池田 「如是我聞」の心とは「師弟不二」の心です。それが仏法伝持の極意です。
 一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、響き合う「師弟不二」のドラマ──それが「如是我聞」の一句に結晶しているのです。
 しかも、法華経は「滅後のための経典」です。「仏の滅後の衆生救済をどうするか。だれが法華経を受持し、弘めるのか」。序品の舞台からすでに、この根本のテーマが奏でられている。
 日月燈明仏の後を継いで、弟子の妙光菩薩が法華経を説き、日月燈明仏の八人の王子をはじめ人々を成仏させていく──これも、その一つです。
 斉藤 未来永遠にわたって衆生を救うことに仏の願いがあり、仏が出現する目的があるわけですね。
 池田 その通りです。日蓮大聖人は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」と仰せになっている。
 次元は異なるが、一般にも、本当に民衆を思う強い一念は、その人が亡くなった後でも人々の心を動かしていく。
 マハトマ・ガンジーは、こう遺言したと伝えられている。
 「もし私の精神が世界の光明であり得るなら、私は墓の中からでも語り続けよう!」(ガンジー記念館副館長のバンディ博士が講演で紹介)と。
 そして、未来の人類まで救おうという師匠の一念を「不二」で分かちもつ弟子の戦いによって、現実に人は救われていく。現実に「法」が、慈悲の働きを及ぼしていくわけです。師匠がいる間は、まだ、いいかもしれない。師弟というのは、それが本物であるか否か、師がいなくなったときに試されるのです。仏法は厳しい。
 釈尊が入滅して、皆が嘆き悲しんでいたとき、一人の老僧がもらしたという。
 「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。〈このことはしてもよい。このことはしてはならない〉といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれはなんでもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(『ブッダ最後の旅──大パリニックバーナ経』中村元訳、岩波文庫)と。
 この老僧を、諸君は、とんでもない人間だと思うだろう。しかし、現実に人の心というのは、こういうものなのです。二十一世紀のリーダーである諸君の使命は重大です。
 斉藤 はい。心してまいります。
 先ほどの序品の話ですが、妙光菩薩が、日月燈明如来の滅後、如来と同じように法華経を説いたことも「如是我聞」の実践となるのでしょうか。
 池田 そうなるだろう。仏の入滅を転機として、″救われる弟子″から″救う弟子″へと転換したのです。これこそ法華経の精神です。だから「如是我聞」の心とは、弟子が決然と立ち上がることです。「さあ、師と同じ心で、民衆を救っていくぞ」と、困難を求めて突き進む、その″大闘争宣言″とは言えないだろうか。
 法華経成立の観点からいえば、二十八品の法華経は、仏の滅後、仏と同じ境涯に立って全民衆を救おうと「如是我聞」した弟子たちによってこそ、まとめられたのであろう。その意味からも、法華経は「師弟不二」の経典です。
 また戸田先生の「獄中の悟達」も、一次元から言えば、先生が法難の中で、御本仏日蓮大聖人の「常住此説法(常にここに住して法を説く)」(法華経四八九ページ)を「如是我聞」された姿、ととらえられるのではないか。
 須田 弟子が立つといえば、池田先生の『若き日の日記』の、戸田先生が逝去された後のところを読ませていただき、改めて感動しました。
 一日一日、恩師の心を我が心として、学会をどう守り、築いていくか、苦闘されたことが記されています。恐縮ですが、一部を紹介させてください。
 「当日の焼香者、十二万人。誠心の人であり、先生を、心からお慕い申し上げる方々である。
 今後、この方々を、さらにさらに、無量に指導し、幸福にしてあげねばと決意。父にかわって」(昭和三十三年四月八日。本全集第37巻収録、以下同じ)
 「多数の幹部たちは、先生の死を忘れたのか、と憤りを感ずることあり。くやしい」(同五月二十五日)
 「恩師の慈悲が、生命に脈々と流れている感じの毎日」(同十一月十日)
 「若あゆのごとく、躍動する若人。この人たちのため、自分は一生戦おう。犠牲になってもよい。恩師がそうであった」(同十二月十二日)
 「恩師の生命の叫びが、一日一日、消えゆくようでならない。断じて消してはならぬ。組織あり、教学あり、社会の地位あり──大切なのは、慈悲だ。慈悲ある人だ。不退の求道だ。無限の求道の人だ」(昭和三十四年二月二十日)
 「首脳たちが、もっと会員のことを真剣に思うべきである。自己を投げだして、会員に奉仕することだ。その叫びに、その姿勢のみに、皆は喜んでついてくるのだ。ずるい指導者になるなかれ。会員が可哀想だ」(同七月二十三日)
 池田 今も、まったく同じ気持ちです。ともあれ、法華経は徹頭徹尾、師弟不二が魂なのです。
5  聞法の意義──声仏事を為す
 須田 ところで「聞く」ということは人間生命にとって、とりわけ深い意義があるように思われます。「見る」「嗅ぐ」などという他の感覚よりも早い段階に経験します。
 遠藤 この点について、『音楽する精神』(アンソニー・ストー著、佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳、白揚社)の中で、ニューヨーク大学の音楽教師、バロウズ氏のユニークな研究が紹介されています。彼は次のように述べています。
 「胎児は子宮のなかで、戸がバタンと閉まる音にびくっとする。子宮のなかで聞える豊かで温かい雑音が記録されている。赤ん坊にとって自分の皮膚のさらに向うにある世界について、その存在を示してくれる最初のものの一つが、この母親の心臓の鼓動や呼吸なのである」と。
 須田 五感の中で最初に獲得されるのは聴覚らしいのです。広く言えば、「聞く」ということは、聴覚だけでなく、宇宙に満ち満ちた不思議なるリズムを感じとる、生命の力、と言ってもよいでしょう。
 大聖人は「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」と述べられています。自分の経験からいっても、本で読んだ知識は、すぐに忘れがちです(笑い)。
 でも講義など、音声によって真剣に受け止めたものは、何倍も印象が強く、よりしっかりと記憶に定着するようです。
 遠藤 日寛上人は、人が亡くなった後でも、しばらくは題目を送って、聞かせてあげるべきであると言われています。(『富士宗学要集』第三巻二六五)
 斉藤 法華経でも「法を聞く」(聞法)ということが大変に重視されています。とくに方便品(第二章)や寿量品(第十六章)などの重要な説法の後では、必ず「法華経を聞く功徳」が説かれています。
 池田 大聖人も「此の経は専ら聞を以て本と為す」と仰せです。だから、仏の「声」が重要な意味を持っている。「妙法蓮華経」の「経」の意義について、「声仏事を為す之を名けて経と為す」と述べられるゆえんです。
 遠藤 大聖人は、仏の三十二相の中では「梵音声相」が第一の相であると仰せになっています。(御書一一二二ページ)
 「梵音声相」とは、音声が遠くまで明瞭に達し、しかも清浄で、聞く人を喜ばせるような声です。実際に釈尊の声も、そうだったのでしょう。
 池田 すばらしい声だったからこそ、人々の生命を揺るがし、蘇らせることができたのだろうね。それは、仏の己心に悟った成仏の法を顕す「真実の声」であった。
 「声」は生命全体の響きです。声にはその人の生命、人格そのものが現れている。あるフランスの作家は「声は第二の顔である」と言った。姿・形はごまかせても、声はごまかせないものです。
 須田 イギリスの科学雑誌「ネーチャー」(一九九五年二月二日、第三七三巻六五一三号)に興味深い記事が載っていました。人々はどのようなメディアの情報に騙されやすいか、調べる実験をしたと言うのです。新聞とテレビとラジオを使って、同一人物が真実を語るインタビューと嘘をついているインタビューを並べて掲載・放送し、読者・視聴者に嘘を見破ってもらうというものです。
 その結果、人々が一番騙されやすいのはテレビ。逆に、四分の三もの人が嘘を見破ったのはラジオでした。新聞はその中間だったそうです。人々は、映像には騙されても、声には騙されなかったとみることもできます。
 斉藤 「南無妙法蓮華経」という題目自体に不思議なリズムを感じます。念仏が″哀音″といわれるように、陰々滅々とした暗い音調であるのに比べて、題目には人を勇気づけ、躍動させる力強い音律があります。
 須田 題目のリズムといえば、世界的バイオリニストのユーディー・メニューイン氏が、池田先生と対談されたときに語っておられたことを思い出します。
 ──「南無妙法蓮華経」の「NAM(南無)」という音に、強い印象を受けます。「M」とは命の源というか、「マザー(MOTHER)」の音、子どもが一番、最初に覚える「マー(お母さん)、マー」という音に通じる。この「M」の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い「R」の音(蓮)が中央にある──(「聖教新聞」一九九二年四月七日付)と。
 池田 いずれにせよ、題目こそ宇宙の根源のリズムであり、尊極の音声である。
 大聖人は仰せです。南無妙法蓮華経には、一切衆生の仏性を「唯一音」に呼び現す無量無辺の功徳がある(御書五五七ページ)。また、凡夫という無明の卵を温め、孵化させ、仏という鳥へと育てる「唱への母」である(御書一四四三ページ)と。
 そして大聖人は「声もをしまず唱うるなり」と述べられている。声も惜しまずといっても、声の大小ではない。一切衆生を成仏させようという慈悲の大音声です。
 学会の行動も、この大聖人の御精神を我が心とし、広宣流布のための「声も惜しまぬ」行動である。
 題目を真剣に唱える声を根本として、温かい励ましの声、毅然とした勇気の声、心からの歓喜の声、真剣な誓いの声、明快な知恵の声、等々に満ち満ちているのが創価学会である。そこに無量の功徳がわいているのです。
 学会こそが、惜しみない声また声で、広宣流布という偉大な「仏事」を為している教団なのです。

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