Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

序論 「生命」がキーワードの時代へ  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
5  各分野でも「生命」を指向
 須田 近代科学も一種の″慧眼″かもしれませんが、科学の傾向性として、生命を種々の部品で構成された機械のように、とらえようとしました(機械論)。また生命や人間を、肉体と精神、主体と客体という分離・対立するものに分けて、とらえようとしました(二元論)。また、生命の働きを物質に還元して把握しようとしました(還元論)。
 しかし、こうした機械論、二元論、還元論では、生命の一側面は解明し得ても、ダイナミックな全体像は見えてこない。
 斉藤 かえって人間や生命を「モノ」化し、生命と生命、生命と環境を対立的にとらえることが定着してしまった。環境破壊や人間による自然の支配を許す温床にさえなったとされていますね。
 遠藤 そういった反省から、とくに一九八〇年代以降、登場してきたのが、ニューサイエンス、エコロジーなどの流れです。
 たとえば、カプラ(アメリカの理論物理学者)の『タオ自然学』は、二元論や還元主義の超克を説き、現代物理学の最先端と、東洋思想の知恵の共通性を指摘しました。
 ワトソン(イギリスの動物行動学者)の『生命潮流』は、地球上の生物は個々ばらばらな存在ではなく、関係性の場のようなもののなかで、共生しているとしました。
 ラブロック(イギリスの科学者)の『地球生命圏』は、地球自体が一個の巨大な生命体であるという「ガイア仮説」を提示しています。
 こうしたなかで、それまで見落とされていた、自然との調和、他者との一体感、平等性、多様性といった価値が注目されだしました。
 池田 「万物の相互依存性」──仏法でいう「縁起」の考え方の一面に光が当てられてきたね。
 斉藤 生命現象を統一的にとらえようとしたゲーテの自然観も、再評価されているようです。たとえば、こんな言葉があります。
 「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」(「日記・一八一二年」、フォン・ベルタランフィ『生命』長野敬・飯島衛共訳〈みすず書房〉の中で紹介)と。
 須田 「モノ(物質)」的な世界像から「コト(事象)」的な世界観への転換をいう人もいます。
 池田 「コト」というのは「事象」「現象」であり、まさに「法」そのものです。世界を″諸物″としてではなく、″諸法″として、とらえ始めている。その″諸法″の実相(真実の姿)を説いたのが、法華経なのです。
 今、このように、生命観、世界観をめぐつて、明らかに、パラダイム(考え方の枠組み)の大転換が見られる。世界とは「生命」である──戸田先生の悟達への、一次元からの接近といえるでしょう。
 遠藤 「モノ」的科学の最先端とも言える分野からも、「コト」的な世界観・生命観を見つめざるをえなくなってきています。
 たとえば量子力学。物理学者の中には、究極の粒子を確定しようと努力し続けている人もいるわけですが、素粒子は、どうしても「場」の状態としてしかとらえられない。
 また分子生物学のDNA(デオキシリボ核酸)研究。これまではDNAの遺伝情報を、一部分一部分、切り取って、その働きを考察していました。どちらかというと「物質」としての解明でした。
 その基本は変わらないかもしれませんが、最近は、ヒトであればヒトのDNAの全体(ゲノム)を解明し、そこに刻まれている「地球生命の物語」を読み解こうとしています。地球に生命が誕生して以来の、生命間の交流、生命の環境への対応の歴史を追うことができると言うのです。
 「モノ」に即しながらも、「コト」へ「いのち」へ、「物」から「物語」ヘ──という指向性が出てきている。ある人は、DNAを「経典かバイブルのようなもの」(中村桂子『生命誌の扉を開く』哲学書房)とさえ言っています。
 池田 時代は急速に動いている。DNAに関して大事な視点は、生命それ自体がDNAをつくっていったのであって、DNAが生命をつくったのではないということです。
 大宇宙即生命であり、生命即大宇宙です。生命それ自体が、作者であり、しかも、作品なのです。
 須田 作品といえば、芸術の分野でも、現代アートの無機質的な美だけでなく、より生命的な美しさの志向へ、生命力の復活へという動きがあります。
 たとえば、「人工生命アート」という、細胞などの有機的な美しさをコンピューターで描こうとするもの。また「ヒーリング・アート」といって、患者をリラックスさせたり、治りたいという気持ちを起こさせたりする色彩や形を探るものです。
 遠藤 経済でも、モノの生産だけの観点から、生命の再生産、すなわち人間的価値の再生産へという志向性がみられます。
 須田 政治の分野でも、パワー・ポリティクス(権力政治)から、ノン・バイオレンス(非暴力)、ノー・キリング(不殺生)へと、つまり、力による政治ではなく、生命尊厳の政治へと模索が始まっています。
 一九八六年のフィリピン革命、八九年のチリの民主化、チェコのビロード革命──いずれも無血のうちに成し遂げられました。課題は多いようですが、生命重視の基盤をつくりゆく希望が開けたと思います。
 斉藤 これらの革命の推進者である、フィリピンのアキノ前大統領、チリのエイルウィン前大統領、チェコのハベル大統領の、いずれとも、池田先生は語り合われています。
 池田 二十一世紀のキーワードは「生命」である。また「生命力」でしょう。
 最近、ハベル大統領は、民主主義が人類に活力を与えるには、何が必要かと問いかけています。(九四年九月、米スタンフォード大学での講演「現代の政治状況としての文明」)
 大統領は、今日の西側の「民主主義社会」には、「物質主義」があり、「あらゆる種類の精神性の否定」があると指摘しています。
 さらに「人間を超えたあらゆるものに対する尊大な侮辱」「常軌を逸した消費主義」「永遠性に対する信仰の欠如」等々があると。
 しかし、政治的な見地から見て、「民主主義が人類の唯一の希望であり、私たちの生命の内奥にある性質と共鳴すれば、有益なインパクトを与えうる唯一のものである」。
 ゆえに民主主義は、もっと広く人類に受け入れられねばならない。しかし、何かを忘れている。その「普遍的な共鳴が得られるはずの民主主義が忘れている次元とは何でしょうか」──。
 結論として大統領は、こう述べている。
 「民主主義は、われわれを超えるだけではなく、われわれの内部とわれわれの間にも、非物質的な秩序に対する尊敬を回復させなければなりません」
 「世界的な民主主義秩序の権威は、宇宙の権威が回復されなければ構築することはできません」
 非物質的秩序とは、仏法の立場でいえば、生命的秩序といえるでしょう。そうした秩序への尊敬、宇宙の権威。これらが回復されねばならないと。
 ハベル大統領が指摘されたように、今、世界は、「自由」でありながら「放縦」ではない、精神性の豊かな社会を模索しています。と同時に、その基盤となる確かな生命観、蘇生への智慧を求めています。政治家も、こうした智慧に、真摯に耳を傾けざるをえない時がきている。
6  「生命尊厳の世紀」へ
 斉藤 「民主主義」と「生命観」といえば、ゴルバチョフ財団のツィプコ博士は、本年(九五年)の年頭に日本の新聞(「北海道新聞」一月六日付夕刊)で述べています。
 「今こそ、ソ連は完全に崩壊した」と。
 「チェチェンの戦争は、ロシアの若い民主主義の敗北を意味するにとどまらない。あの戦争は、ロシアが道徳的に自己崩壊したことを意味している」
 「孤立して、今後の予想もつかぬロシア連邦は、世界で認められ、人気を得ることはあるまい。世界が新民主ロシアの代わりに手にしたのは、人間の命の価値が非常に小さく、国内問題が戦車と大砲の力で解決される国、政府が誰も何も統制できない国であった。このロシアの袋小路からの出口を考えつくのはむずかしい。いったい、出口はあるのだろうか」と。
 遠藤 この戦争で、たくさんの貴い命が失われました。駆り出された兵士たちのなかには、まだあどけなさの残る青少年たちも多かったといいます。出兵した息子が心配で、いてもたってもいられず、ロシアから戦地まで追いかけて行った母親もいたそうです。
 池田 どんな理由をつけようと、この世に″正しい戦争″なんかありません。絶対にない。苦しむのは、結局、庶民であり、家族であり、母親です。
 私も、長兄(喜一)を戦争で亡くしました。昭和二十年(一九四五年)一月十一日、ビルマ(現ミャンマー)で戦死。二十九歳の若さでした。その報が我が家に届いたのは、二年以上たってからのことです。
 「喜一の夢を見たよ。大丈夫、大丈夫だ。必ず生きて帰ってくる、といって出ていった」。終戦後しばらく、母は何度も、うれしそうに話していました。何とか明るく振る舞おうとする気丈さが、かえって痛々しかった。戦死の報を受け取り、一縷の望みが絶たれたときの母の後ろ姿。そして帰ってきた遺骨を抱きかかえるようにしていたその姿。私は永久に忘れることはできない。
 ツィプコ博士の言葉に「人間の命の価値が小さい国」とあったが、人間を、「国家の目」で見るか、「生命の目」で見るかです。「国家の目」は、生命を権力のしもべとして利用しようとし、数や物に還元してしまう。「生命の目」は、相手を、かけがえのない無二の存在として慈しむ。
 戸田先生の「仏とは生命なり」との悟達は、「生命こそ絶対にして最高の実在である」との宣言でもあった。人間の尊厳を失わしめる、あらゆる歪んだ「目」に対する挑戦の開始であったと思う。それこそ仏法の本源的な挑戦なのです。
 遠藤 ツィブコ博士が指摘したロシアの「若い民主主義の敗北」も、「非物質的な秩序への尊敬」(ハベル大統領)すなわち「生命への尊敬」が欠落している悲劇でしょう。
 須田 「生命への尊敬」。これは、池田先生がトインビー博士と編まれた対談集(『二十一世紀への対話』)の最後のテーマでもありました。
 生命よりもイデオロギーを優先させる時代に終わりを告げなければならない、二十一世紀を「生命の世紀」としなければならないとの、並々ならぬ決意を感じました。
 池田 そう。まさにその「生命の世紀」への突破口を開かれたのが、戸田先生だったのです。そのお心を我が身に駆けめぐらせて、私は世界を回り「人間の尊厳」を訴え続けてきたのです。
 先生の残された「生命論」が、どれほど先見に満ちた、一大哲理の結晶であるか。後世の歴史は証明するでしょう。

1
5