Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序論 「生命」がキーワードの時代へ  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

前後
3  「生命論」に創価学会の原点
 池田 ご自身の悟達後の境涯について戸田先生は、ある人に、こうも語っておられた。
 「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ。なりたかったら、法華経のため、広宣流布のため、ちょっぴり牢屋に入ってみろ」
 そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。
 須田 戸田先生の悟りは、単に観念の理解ではなく、生命そのものの変革だったのですね。
 池田 その通りです。仏法の目的は、結局、境涯を変えるところにあるのです。また生命論といっても、学会が独自に始めたものではありません。日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です。これを継承したのが学会てす。
 釈尊は、生老病死という人生の苦と対決して、自己の内奥の広大な世界を開いていった。天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として説明した。
 華厳経では、心と仏と衆生は無作別であると説いているが、天台は、これを借りて、心と仏と衆生の三つの次元で法華経の妙法を論じた。「生命」は、これら三つを統一的に表現できる、現代的な言葉でもあります。
 そして日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、御義口伝をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。すなわち、生命論こそが仏法の本体であった。
 斉藤 その本体を、どのように人々に知らせていくか。ここに、先哲の苦闘があったのですね。
 池田 そう。しかも、戸田先生の「生命論」は、ただ「論」のための「論」ではありません。科学的な分析と総合を繰り返して出来たのでもない。かといって、科学にも道理にも反しない。
 戸田先生ご自身の、真理に対する全人格的な格闘によって、法華経の奥底から汲み上げられたものです。これこそ「法華経の智慧」と言える。ゆえに、この「生命論」には、知識を与えるだけでなく、発想の転換を促す力がある。そして希望へ、現実の行動へとつながっている。「生きる力」を湧きたたせる「事の哲学」です。
 この哲学を、そのまま実践に移すならば、そこから、無気力と苦悶の人生を、充実と喜びの人生へ転換しゆく、自己変革のドラマが始まる。そこから、人類が強くなり、豊かになり、賢明になるための、あらゆる次元の革命の歯車が回り始めます。
 斉藤 「人間革命」「総体革命」ですね。
 池田 「人間革命」とは、成仏の現代的表現です。総体革命とは「広宣流布」です。
 それらは、あたかも地球が「自転」しながら太陽の周りを「公転」する姿に似ている。自転によって昼と夜があり、公転によって四季がある。私たちは、太陽の仏法の光に包まれながら、昼もあれば夜もある──無限向上の人間革命史を綴っている。また冬もあれば春もある──広宣流布の春秋のロマンを奏で、進んでいるのです。
 ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」──戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。さらに先生は「法華経は何を説かんとしたか」の思索を続けられ、地涌の菩薩として虚空会の儀式に参列している体験をされる。この意義については、後の章で述べることにしよう。
 遠藤 かつて宗門が、戸田先生の「悟達」という表現に難くせをつけてきましたが、在家に、悟達されると、よほど都合が悪いのでしょう(笑い)。
 斉藤 仏法を信奉しながら、悟ったらいけないというのは、大学に入っても卒業してはいけないというようなものですね(笑い)。嫉みでしかない。
 須田 「仏とは生命」──。「生命」という言葉には、科学的で、しかも温かみのある響きを感じます。
 池田 そこがじつは、戸田先生の偉大なところです。
 「仏」というと、人格的な面が表になる。それだけでは、どこか自分とかけ離れた存在というイメージが伴う。また「法」というと、法則とか現象とか、非人格的な面になる。それだけだと、あまり温かみはない。本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。
 「生命は万人にある」「生命は尊い」。これは、だれ人も否定できません。「仏とは生命なり」との宣言は、何より、仏法の真髄は「自分自身」にこそあることを、はっきりさせたのではないだろうか。
4  「永遠の生命」への探求
 斉藤 よく分かります。しかし、三世の生命とか、永遠の生命とか、まだまだ知識としてしか理解できていないのではないかと思えるのですが。生命というものは、具体的にどのように、把握すべきなのでしょうか。
 池田 戸田先生は、よく言われていた。「三世の生命、永遠の生命といっても、だれも見たものはいないんだ」と(笑い)。
 ただ、その輪郭だけでも、描き出すことは意味があると思う。みんなの持っているイメージを出し合ってみたらどうだろう。
 須田 一つには、次のような考え方もあります。自分のなかに「我」というものがある。死んでも、その「我」は、ずっと続く。この「我」が生命の実体であると。
 池田 なるほど。そうすると、死んだ後の「我」は、どこにあるんだろう。
 須田 霊魂のように、フワフワしたものではないとは思うのですが……。
 池田 戸田先生が、こうおっしゃったことがあった。
 「我という名前をつけるけれど、我というのは宇宙のことなのだ。宇宙の生命と君らの生命と違うかというと、違うのは肉体と心であって、生命には変わりはない」
 宇宙と人間を、どうしても別のものに考えがちだが、戸田先生は、どちらも生命であることに変わりはないと言われている。
 須田 戸田先生の「生命論」では、「宇宙自体が生命そのもの」であること、「生命とは宇宙とともに本有常住の存在」であることが論じられています。
 そして「寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」「ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない」と。
 遠藤 では、たとえば、一本の大きな木があるとして、それを大宇宙とします。そこから葉や花が、たくさん出てくる。これが個々の生命のようなものである──こう言えないでしょうか。
 池田 同じような質問をした人がいてね(笑い)。戸田先生は、こう答えておられた。
 「出たものというのではないのです。この水(卓上の茶碗)を大宇宙とするのです。風が吹いてここに波ができるでしょう。波の立ったそれが、われわれの生命なのです。また大宇宙の生命の動きの一種なのです。だから風がなくなれば、また元通りになってしまう」と。
 海を大宇宙とするならば、現れては消え、消えては現れる波が、われわれの生命であると。
 遠藤 波と海は別々のものではない。波は海の働きの一つだということですね。
 斉藤 そういえば、ある英国人が、こういうことを言っていたようです。
 「宇宙と″人間たち″との関係は、大洋と″波″の関係と同じである。──ゆえに死として、あるいは空虚な空間とか無として見ているものは、たんに無限に波だつ人生という大洋の、波がしらと波がしらの間の谷にすぎない」
 そして「宇宙から取り出されたような、切り離された″あなた″は存在しない」(アラン・ワッツの言葉〈柴田和子訳〉。ガイ・マーチー『生命の七つの謎』吉松広延他訳〈白揚社〉の中で紹介)と。
 須田 宇宙に溶けこんでいるということでしょうか。
 池田 そうも言えるかもしれない。だが、戸田先生は「溶けこんでいるっていうより、宇宙の生命それ自体なのです。それ自体が変化を起こしているのだ」と言われているね。
 遠藤 生命を川の流れにたとえる人もいます。常に流れ、変化し続けていて、やがて海と一体になると。
 池田 なるほど。しかし、生命は、もっと奥の次元にあるものではないだろうか。戸田先生も「変化をしていく、流れているように感じられる大もとのものなんだよ」とおっしゃっています。
 「流れているものでもなければ、止まっているのでもない。虚空のごとし」と。それが生命の本質なのです。
 無限の「大宇宙」でもあり、同時に無数の生命体イコール「小宇宙」でもある、ひとつの実在。ダイナミックに変転し続けながら、しかも永遠常住である巨大な生命。この宇宙生命ともいうべき厳たる実在を「仏」ともいい、「妙法」ともいう。万人は、この尊貴なる実在の当体である。
 法華経は「諸法実相」と説く。「諸法」とは、すべての個々の生命事象である。その「実相」すなわち真実の相とは、宇宙生命そのものである。この不可思議の真理を、戸田先生は「仏とは生命なり」と表現されたのです。これが分かれば、絶対に「殺」の心など起きるわけがない。何かを破壊することは、自分を破壊することになるからです。
 斉藤 ″三重苦″で有名なヘレン・ケラー女史が、こう言っています。
 「わたしは見えないひもで陽と星とに結びつけられ、魂の中に永遠の焔を感じる。ここに、日毎の空気の真中に、わたしはこの世のものならぬ降り注ぐ雨を知覚する。わたしは地上の汎ゆる物を天界の汎ゆる物に結びつける光輝を意識する」(『わたしの宗教』柳瀬芳意訳、静思社)
 視覚・聴覚を失っても、彼女には大宇宙と小宇宙との交流が、はっきりと″見えていた″。そう思えてなりません。
 池田 仏法は、五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)を説きます。もしかしたら彼女も、肉眼を超えた、研ぎ澄ました生命の眼で見ていたのかもしれない。また逆に、生命は、そういう深い次元で迫ってこそ″見える″のではないだろうか。
5  各分野でも「生命」を指向
 須田 近代科学も一種の″慧眼″かもしれませんが、科学の傾向性として、生命を種々の部品で構成された機械のように、とらえようとしました(機械論)。また生命や人間を、肉体と精神、主体と客体という分離・対立するものに分けて、とらえようとしました(二元論)。また、生命の働きを物質に還元して把握しようとしました(還元論)。
 しかし、こうした機械論、二元論、還元論では、生命の一側面は解明し得ても、ダイナミックな全体像は見えてこない。
 斉藤 かえって人間や生命を「モノ」化し、生命と生命、生命と環境を対立的にとらえることが定着してしまった。環境破壊や人間による自然の支配を許す温床にさえなったとされていますね。
 遠藤 そういった反省から、とくに一九八〇年代以降、登場してきたのが、ニューサイエンス、エコロジーなどの流れです。
 たとえば、カプラ(アメリカの理論物理学者)の『タオ自然学』は、二元論や還元主義の超克を説き、現代物理学の最先端と、東洋思想の知恵の共通性を指摘しました。
 ワトソン(イギリスの動物行動学者)の『生命潮流』は、地球上の生物は個々ばらばらな存在ではなく、関係性の場のようなもののなかで、共生しているとしました。
 ラブロック(イギリスの科学者)の『地球生命圏』は、地球自体が一個の巨大な生命体であるという「ガイア仮説」を提示しています。
 こうしたなかで、それまで見落とされていた、自然との調和、他者との一体感、平等性、多様性といった価値が注目されだしました。
 池田 「万物の相互依存性」──仏法でいう「縁起」の考え方の一面に光が当てられてきたね。
 斉藤 生命現象を統一的にとらえようとしたゲーテの自然観も、再評価されているようです。たとえば、こんな言葉があります。
 「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」(「日記・一八一二年」、フォン・ベルタランフィ『生命』長野敬・飯島衛共訳〈みすず書房〉の中で紹介)と。
 須田 「モノ(物質)」的な世界像から「コト(事象)」的な世界観への転換をいう人もいます。
 池田 「コト」というのは「事象」「現象」であり、まさに「法」そのものです。世界を″諸物″としてではなく、″諸法″として、とらえ始めている。その″諸法″の実相(真実の姿)を説いたのが、法華経なのです。
 今、このように、生命観、世界観をめぐつて、明らかに、パラダイム(考え方の枠組み)の大転換が見られる。世界とは「生命」である──戸田先生の悟達への、一次元からの接近といえるでしょう。
 遠藤 「モノ」的科学の最先端とも言える分野からも、「コト」的な世界観・生命観を見つめざるをえなくなってきています。
 たとえば量子力学。物理学者の中には、究極の粒子を確定しようと努力し続けている人もいるわけですが、素粒子は、どうしても「場」の状態としてしかとらえられない。
 また分子生物学のDNA(デオキシリボ核酸)研究。これまではDNAの遺伝情報を、一部分一部分、切り取って、その働きを考察していました。どちらかというと「物質」としての解明でした。
 その基本は変わらないかもしれませんが、最近は、ヒトであればヒトのDNAの全体(ゲノム)を解明し、そこに刻まれている「地球生命の物語」を読み解こうとしています。地球に生命が誕生して以来の、生命間の交流、生命の環境への対応の歴史を追うことができると言うのです。
 「モノ」に即しながらも、「コト」へ「いのち」へ、「物」から「物語」ヘ──という指向性が出てきている。ある人は、DNAを「経典かバイブルのようなもの」(中村桂子『生命誌の扉を開く』哲学書房)とさえ言っています。
 池田 時代は急速に動いている。DNAに関して大事な視点は、生命それ自体がDNAをつくっていったのであって、DNAが生命をつくったのではないということです。
 大宇宙即生命であり、生命即大宇宙です。生命それ自体が、作者であり、しかも、作品なのです。
 須田 作品といえば、芸術の分野でも、現代アートの無機質的な美だけでなく、より生命的な美しさの志向へ、生命力の復活へという動きがあります。
 たとえば、「人工生命アート」という、細胞などの有機的な美しさをコンピューターで描こうとするもの。また「ヒーリング・アート」といって、患者をリラックスさせたり、治りたいという気持ちを起こさせたりする色彩や形を探るものです。
 遠藤 経済でも、モノの生産だけの観点から、生命の再生産、すなわち人間的価値の再生産へという志向性がみられます。
 須田 政治の分野でも、パワー・ポリティクス(権力政治)から、ノン・バイオレンス(非暴力)、ノー・キリング(不殺生)へと、つまり、力による政治ではなく、生命尊厳の政治へと模索が始まっています。
 一九八六年のフィリピン革命、八九年のチリの民主化、チェコのビロード革命──いずれも無血のうちに成し遂げられました。課題は多いようですが、生命重視の基盤をつくりゆく希望が開けたと思います。
 斉藤 これらの革命の推進者である、フィリピンのアキノ前大統領、チリのエイルウィン前大統領、チェコのハベル大統領の、いずれとも、池田先生は語り合われています。
 池田 二十一世紀のキーワードは「生命」である。また「生命力」でしょう。
 最近、ハベル大統領は、民主主義が人類に活力を与えるには、何が必要かと問いかけています。(九四年九月、米スタンフォード大学での講演「現代の政治状況としての文明」)
 大統領は、今日の西側の「民主主義社会」には、「物質主義」があり、「あらゆる種類の精神性の否定」があると指摘しています。
 さらに「人間を超えたあらゆるものに対する尊大な侮辱」「常軌を逸した消費主義」「永遠性に対する信仰の欠如」等々があると。
 しかし、政治的な見地から見て、「民主主義が人類の唯一の希望であり、私たちの生命の内奥にある性質と共鳴すれば、有益なインパクトを与えうる唯一のものである」。
 ゆえに民主主義は、もっと広く人類に受け入れられねばならない。しかし、何かを忘れている。その「普遍的な共鳴が得られるはずの民主主義が忘れている次元とは何でしょうか」──。
 結論として大統領は、こう述べている。
 「民主主義は、われわれを超えるだけではなく、われわれの内部とわれわれの間にも、非物質的な秩序に対する尊敬を回復させなければなりません」
 「世界的な民主主義秩序の権威は、宇宙の権威が回復されなければ構築することはできません」
 非物質的秩序とは、仏法の立場でいえば、生命的秩序といえるでしょう。そうした秩序への尊敬、宇宙の権威。これらが回復されねばならないと。
 ハベル大統領が指摘されたように、今、世界は、「自由」でありながら「放縦」ではない、精神性の豊かな社会を模索しています。と同時に、その基盤となる確かな生命観、蘇生への智慧を求めています。政治家も、こうした智慧に、真摯に耳を傾けざるをえない時がきている。
6  「生命尊厳の世紀」へ
 斉藤 「民主主義」と「生命観」といえば、ゴルバチョフ財団のツィプコ博士は、本年(九五年)の年頭に日本の新聞(「北海道新聞」一月六日付夕刊)で述べています。
 「今こそ、ソ連は完全に崩壊した」と。
 「チェチェンの戦争は、ロシアの若い民主主義の敗北を意味するにとどまらない。あの戦争は、ロシアが道徳的に自己崩壊したことを意味している」
 「孤立して、今後の予想もつかぬロシア連邦は、世界で認められ、人気を得ることはあるまい。世界が新民主ロシアの代わりに手にしたのは、人間の命の価値が非常に小さく、国内問題が戦車と大砲の力で解決される国、政府が誰も何も統制できない国であった。このロシアの袋小路からの出口を考えつくのはむずかしい。いったい、出口はあるのだろうか」と。
 遠藤 この戦争で、たくさんの貴い命が失われました。駆り出された兵士たちのなかには、まだあどけなさの残る青少年たちも多かったといいます。出兵した息子が心配で、いてもたってもいられず、ロシアから戦地まで追いかけて行った母親もいたそうです。
 池田 どんな理由をつけようと、この世に″正しい戦争″なんかありません。絶対にない。苦しむのは、結局、庶民であり、家族であり、母親です。
 私も、長兄(喜一)を戦争で亡くしました。昭和二十年(一九四五年)一月十一日、ビルマ(現ミャンマー)で戦死。二十九歳の若さでした。その報が我が家に届いたのは、二年以上たってからのことです。
 「喜一の夢を見たよ。大丈夫、大丈夫だ。必ず生きて帰ってくる、といって出ていった」。終戦後しばらく、母は何度も、うれしそうに話していました。何とか明るく振る舞おうとする気丈さが、かえって痛々しかった。戦死の報を受け取り、一縷の望みが絶たれたときの母の後ろ姿。そして帰ってきた遺骨を抱きかかえるようにしていたその姿。私は永久に忘れることはできない。
 ツィプコ博士の言葉に「人間の命の価値が小さい国」とあったが、人間を、「国家の目」で見るか、「生命の目」で見るかです。「国家の目」は、生命を権力のしもべとして利用しようとし、数や物に還元してしまう。「生命の目」は、相手を、かけがえのない無二の存在として慈しむ。
 戸田先生の「仏とは生命なり」との悟達は、「生命こそ絶対にして最高の実在である」との宣言でもあった。人間の尊厳を失わしめる、あらゆる歪んだ「目」に対する挑戦の開始であったと思う。それこそ仏法の本源的な挑戦なのです。
 遠藤 ツィブコ博士が指摘したロシアの「若い民主主義の敗北」も、「非物質的な秩序への尊敬」(ハベル大統領)すなわち「生命への尊敬」が欠落している悲劇でしょう。
 須田 「生命への尊敬」。これは、池田先生がトインビー博士と編まれた対談集(『二十一世紀への対話』)の最後のテーマでもありました。
 生命よりもイデオロギーを優先させる時代に終わりを告げなければならない、二十一世紀を「生命の世紀」としなければならないとの、並々ならぬ決意を感じました。
 池田 そう。まさにその「生命の世紀」への突破口を開かれたのが、戸田先生だったのです。そのお心を我が身に駆けめぐらせて、私は世界を回り「人間の尊厳」を訴え続けてきたのです。
 先生の残された「生命論」が、どれほど先見に満ちた、一大哲理の結晶であるか。後世の歴史は証明するでしょう。

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