Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序論 「哲学不在の時代」を超えて  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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4  変革期に輝きを放つ経典
 須田 こうして概観するだけでも、現代という変革期が、行き詰まった「哲学の大空位時代」であり、カオス(混沌)であることがわかります。ますます地球は狭くなっているのに、ますます「どこへ行くべきか」わからなくなっている。今こそ人類をリードする根本規範が必要になることは当然のことです。
 池田 じつは法華経は、そういう大変革期にこそ輝きを放つ経典なのです。
 法華経が説かれた時代も、そうであったようだ。釈尊当時のインドは、都市の発達によって、人々が部族という分断の枠を超え、新しい結びつきのなかで「共生」しなければならない時代になりつつありました。
 そうしたなか、思想的には唯物論から快楽主義、苦行主義に至るまで、混乱の極みに達していた。
 須田 いわゆる、有名な六師外道が代表ですね。
 池田 そうです。こういう一大転換期に、人類を結ぶ新しい統合の原理を教えたのが、釈尊の教えであった。そして、その精髄が法華経です。
 後の中国の天台大師も、日本の日蓮大聖人も、さまざまな宗教が入り乱れ、人々が何を拠りどころとしてよいか、わからなくなっていたときに、「法華経」を掲げて、時代の課題にまっこうから立ち向かわれた。法華経は、いわば「精神の戦国時代」を突き進みゆく「統合の旗印]だったのです。
 須田 その点で思い出すのは、ハワイ大学宗教学部長のジョージ・タナベ博士の言葉です。同学部は、東西の比較宗教学では世界屈指とされています。博士は述べています。
 「法華経は普遍性、永遠性を説いた教えとして、仏典の最高峰に位置しております……法華経が時代を超え、文化を超えて、世界の人々に共感をもって受け入れられたという事実は、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。すなわち、多文化の融合、多様性の統合が叫ばれている現代、まさに異なる文化に生きる人々の心を引きつけ続けた法華経の秘けつを探ることによって、私たちは統合への原理を見いだすことができるのではないか、ということです」(「聖教新聞」一九九四年四月十四日付)と。
 また「法華経の″一乗″とは、″世界は一つ″の意義であり、普遍の法のもとにすべての差異が生かされ共存する、とのイメージを私たちは普遍の法である法華経から学び取らなければならない」(同前)と。
 池田 まさに、法華経の現代的意義を的確に示しておられる。「法の華の経」──法華経は「経の王」です。王とは、他を否定するのではなく、一切を生かしていく立場です。
 日蓮大聖人は仰せです。
 「所詮しょせん・万法は己心に収まりて一塵もけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず」と。
 法華経以外の哲学は、生命の法の「片端片端」すなわち部分観を説いたにすぎない。それらは「部分的真理」ではあっても、それを中心とすることは、生命全体を蘇生させることにはならない。かえって、歪みを生じてしまう。これに対し、法華経はそれらを統一し、きちんと位置づけ、生かしていく「根源の一法」を説いているのです。
 それが「法華経の智慧」です。法華経の寿量品には、「良医の智慧聡達にして」(法華経四八四ページ)とある。名医のごとく、法華経の智慧は、苦しみ悩む人々を救うのです。
 遠藤 その智慧で救われた人々について、「常懐悲観、心遂醒悟」(法華経四八八ページ)とあります。すなわち深く苦悩していたけれども、「心遂に醒悟しょうごし」──心が目ざめて、救われた、と。それは、どういう智慧だったのでしょうか。
 池田 そう簡単に言えれば、この連載をやる必要もない(笑い)。結論だけ言えば、「自分は永遠の昔から仏であり、永遠の未来まで仏である」という真理を悟ったのです。そう言ったところで、「なるほど、わかりました」と(笑い)急に開けるものでもない。
 この真理を、万人にわかりやすく説かんとしたのが、法華経であり、万人が事実の上で体得できるようにされたのが、「末法の法華経の行者」日蓮大聖人なのです。
 ともあれ、法華経は、無力感を打ち破る宇宙大の「心の秘宝」を教えている。宇宙の大生命を呼吸しながら、はつらつと生きる人生を教えている。自己変革という真の大冒険を教えている。
 法華経には、万人を平和へと包み込む大きさがある。絢爛たる文化と芸術の薫りがある。いつでも「常楽我浄」で生き、どこでも「我此土安穏」で生きられる大境涯を開かせる。
 法華経には、邪悪と戦う正義のドラマがある。疲れた人を励ます温かさがある。恐れを取り除く勇気の鼓動がある。三世を自在に遊戯する歓喜の合唱がある。自由の飛翔がある。
 燦々たる光があり、花があり、緑があり、音楽があり、絵画があり、映画がある。
 最高の心理学があり、人生学があり、幸福学があり、平和学がある。「健康」の根本の軌道がある。
 「心が変われば一切が変わる」という宇宙的真理に目ざめさせてくれる。個人主義の「荒れ地」でもなければ、全体主義の「牢獄」でもない──人々が補い合い、励まし合って生きる、慈悲の浄土を現出させる力がある。
 共産主義も資本主義も、人間を手段にしてきたが、人間が目的となり、人間が主人となり、人間が王者となる──根本の人間主義が「経の王」法華経にはある。こういう法華経の主張を、かりに「宇宙的人間主義」「宇宙的ヒューマニズム」と呼んではどうだろうか。
 斉藤 賛成です。これまでの、他の生命を犠牲にした″人間中心主義″との違いも明確にできると思います。
 池田 二十一世紀を標榜する、壮大なる名称と私は思う。
5  二十一世紀を「智慧の世紀」へ
 池田 ともあれ、大切なのは「智慧」である。智慧を体得することです。智慧と知識の関係は、今後も論じていくことになると思うが、あるイギリスの思想家は書いています。
 「知識がありながら智慧がないよりも、知識はなくとも智慧があるほうがよい。それはちょうど、鉱山をもちながら富がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうがよいのと同じである」(チャールズ・C・コルトン『ラコン』)
 智慧も知識も両方あるのが理想ですが、根本は智慧である。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」はないからです。その意味で、二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない。
 そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。じつはそこに、法華経が「師弟」という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです。
 遠藤 経典に対しても、頭脳だけでなく、全人格的関わりが絶対に必要ですね。また、それが現実の道理と思います。
 須田 戸田先生の獄中での悟達も、法華経への生命をかけた肉薄から生まれたものでした。
 斉藤 このときの「仏とは生命なんだ」との悟達が、法華経を″過去の古典″から現代に蘇生させる原点となったわけです。ここに学会の不滅の深さがあると感じられます。
 池田 その通りだ。次は、この戸田先生の悟達の意義から入っていきたい。
 法華経をどう読んでいくのか──日蓮大聖人は御義口伝に仰せです。
 「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なり」と。法華経二十八品の一文一句が、ことごとく妙法の当体である自分自身のことを説いている。決して、遠くのことを説いているのではない。
 その根本の立場から、法華経をどう読むべきかを、大聖人は御義口伝として残してくださっている。この御義口伝を、深く、厳格に拝しながら、二十一世紀へ「法華経を語る」壮大な挑戦の旅を、読者とともに始めたい。若き諸君の英知を借りながら。
 それは、どこまでも「自分自身が仏である」という真理への旅である。人生とは、自分自身への永遠なる旅なのです。
 人類の意識革命の必要を痛切に語った詩人に、ヘルマン・ヘッセがいたね。彼は今世紀の病を、鋭敏に感じとっていた。彼の「書物」と題する詩が、私どもの法華経探求にも示唆を与えてくれています。
  この世のどんな書物も
  君に幸福をもたらしてくれはしない
  けれども書物はひそかに君をさとして
  君自身の中へ立ち返らせる
  そこには太陽も星も月も
  君の必要なものはみんなある
  君が求めている光は
  君自身の中に宿っているのだから
  そうすると君が書物の中に
  長い間 捜し求めていた知恵が
  あらゆる頁から光ってみえる──
  なぜなら今その知恵は君のものとなっているから(『生きることについて』三浦靭郎訳・編、社会思想社)
 斉藤 私どもも、これを通して、法華経に関して、さまざまな角度から勉強をしていきたい。また、勉強していかねばならない。これが二十一世紀に向かう若き指導者たちの真髄の哲学である、こう言えるよう頑張ってまいります。

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