Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「誓願」 誓願

小説「新・人間革命」

前後
86  誓願(86)
 山本伸一は、沖縄研修道場に集ったアジアの同志に、沖縄の同志に、そして、衛星中継で結ばれた日本の全同志に呼びかけた。
 「わが創価家族は、『誠実』と『平等』と『信頼』のスクラムで、どこまでも進む。国境もない。民族の違いもない。なんの隔てもない――人間主義で結ばれた、これほど麗しい“地球家族”は、ほかに絶対にないと確信するものであります! 私どもは、第一級の国際人として、新しいルネサンス、新しい宗教改革の大舞台に出航していきたい」
 ここで彼は、力を込めた。
 「新時代の広宣流布もまた険路でありましょう。『賢明』にして『強気』でなければ、勝利と栄光は勝ち取れません。
 仏法は勝負である。人生も勝負である。一切が勝負である。ゆえに勝たねばならない。勝たねば友を守れない。正義を守れない。
 断じて皆を守り切る。幸福にしていく――そうした『強気』に徹した『勝利のリーダー』になっていただきたい!」
 誓いの大拍手が轟いた。
 伸一は、この沖縄訪問のあと、十年ぶりに大分県を訪れ、県総会で、学会歌の指揮を執った。あの第一次宗門事件で正信会僧による非道な学会攻撃に耐えながら、敢然と創価の正義を叫び抜いた大分の同志たちは、今回の第二次宗門事件では微動だにしなかった。
 皆が、陰険な宗門僧の本質も、学会攻撃の卑劣な手口も、知り尽くしていたからだ。また、御書に照らして、“いよいよ第六天の魔王が競い起こったのだ! 負けてなるものか!”と、強く自覚していたのである。
 同志は、第一次宗門事件を乗り越えたことによって、“断じて、創価学会と共に広宣流布に進むぞ!”との決意も、信心への確信も、一段と増していた。
 御聖訓には、「かたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」と。難を呼び起こし、難と闘い、難を乗り越えることによって、大飛躍を遂げてきたのが、創価学会の誉れの歴史である。
87  誓願(87)
 山本伸一は、広布に走った。
 “権威主義、教条主義の宗門の鉄鎖から解き放たれた今こそ、世界広宣流布の壮大にして盤石な礎を築かねばならない。時が来たのだ! 新時代の希望の朝が訪れたのだ!”
 彼は、西暦二〇〇〇年、つまり二十世紀中に、その布石を終えるため、力の限り、世界を駆け巡ろうと心に決めていた。二十一世紀の開幕の年、伸一は七十三歳となる。そして、八十歳までには、世界広布の基盤を完成させたいと考えていたのである。
 一九九二年(平成四年)六月上旬から七月上旬にかけては、ドイツをはじめ、欧州三カ国とエジプト、トルコを訪問した。ドイツのフランクフルトでは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアなど、中欧、東欧、ロシアの十三カ国の代表メンバーが集い、歴史的な合同会議が行われた。
 伸一は、戸田城聖が東欧・ロシアの民衆のことを深く思い、特に五六年(昭和三十一年)の「ハンガリー動乱」の時には、「実にかわいそうでたまらない。かの民衆は、どれほど苦しんでいるか」と、強く心を痛めていたことなどを紹介し、集った同志を励ました。
 「こうした悲劇を転換しゆくために、戸田先生は、私ども青年に“確固たる生命哲学を打ち立てよ!”“人間主義の行動で世界を結べ!”と呼びかけられた。私は、そうした先生の構想を、一つ、また一つと、実現してきました。今や、先生が憂慮しておられたハンガリーをはじめ、東欧・ロシアの天地に、このように地涌の菩薩が誕生した!」
 どの国も、日蓮仏法を待望していたのだ。
 伸一は、十月には第八次訪中を果たした。この訪問では、中国社会科学院から同院初となる名誉研究教授の称号が贈られた。
 その折、彼は、「二十一世紀と東アジア文明」と題して講演。東アジアに共通する精神性を特徴づけている「共生のエートス(道徳的気風)」について論及し、世界は、人間と人間、また人間と自然が「共生」していく思潮を必要としていると、強く訴えた。

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