Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「勝ち鬨」 勝ち鬨

小説「新・人間革命」

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87  勝ち鬨(87)
 秋田指導の翌月となる二月の七日、山本伸一は休む間もなく茨城県を訪問した。
 茨城もまた、正信会僧による卑劣な学会攻撃の烈風が盛んに吹き荒れた地である。なかでも鹿島地域本部では、必死の攻防が続いてきた。鹿島、潮来、牛堀、波崎などの町々で、悪僧の言にたぶらかされて、檀徒となる会員が広がっていったのである。
 毎月の御講や、葬儀などの法事の席でも、学会への悪口雑言が繰り返された。それでも同志は、ひたすら耐えてきた。
 一九七九年(昭和五十四年)二月、鹿島地域の神栖に学会が建立寄進した寺院が落成した。同志は、この寺なら、清純な信心の話が聞けるだろうと希望をいだいた。しかし、落慶入仏式の席で、新任の住職から発せられたのは、学会を謗法呼ばわりする言葉であった。広宣流布を、僧俗和合を願っての赤誠は踏みにじられたのだ。龍ケ崎や筑波山南部の地域(後のつくば市)などでも、学会への非難・中傷が激しくなっていた。
 同志たちにとって、最も残念だったのは、つい先日まで一緒に広布に生きようと話し合ってきた友が、悪僧に踊らされていることが分からず、信心を狂わされ、人が変わったようになっていったことであった。
 “今に正邪は明らかになる!”“必ず、学会の正義を示してみせる!”
 同志は、こう誓い、郷土に“春”を呼ぼうと広布に走った。この時、皆で何度も歌ったのが、七八年(同五十三年)十月、伸一が作詞して贈った県歌「凱歌の人生」であった。
 君よ辛くも いつの日か
 広宣流布の 金の風
 歓喜の凱歌の 勝ちどきを
 天空までも 叫ばんや
 ああ茨城は 勇者あり
 一節一節から、伸一の思いが、びんびんと伝わってくる。“勇者になるんだ! 負けるものか!”との決意が、皆の胸に湧いた。
88  勝ち鬨(88)
 一九八二年(昭和五十七年)二月七日の午後、山本伸一は、水戸婦人会館を視察したあと、水戸市内の茨城文化会館を訪問し、落成を祝う県代表者の集いに出席した。
 この席で彼は、「今回の訪問で一人でも多くの同志と会い、希望の目標を示し、新世紀への出発をしたい」との思いを語った。
 翌八日には茨城文化会館の落成記念県幹部会に出席。ここでは、学会の幹部でありながら、退転していった者の根本原因について言及していった。
 「信心がむしばまれていってしまった人に共通しているのは、強い慢心があることです。そこに最大の原因があるといえます。
 実は、慢心と臆病・怠惰とは、表裏をなしている。それゆえに慢心の人は、広布への責任をもたず、新しい挑戦や苦労を避けようとする。だから進歩も成長もない。その結果、信心は淀み、心はエゴに支配され、憤懣があふれる。それが、広宣流布の破壊の行動となっていくケースが多い。
 また、慢心の人は、必ずといってよいほど、勤行を怠っている。傲慢さに毒され、信心の基本を軽く見ているんです。
 若くして幹部になり、指導的な立場につくと、自分に力があると錯覚し、傲慢になり、周囲を睥睨する人もいます。しかし、役職があるから偉いのではない。苦労して、その使命と責任を果たしてこそ立派なんです。
 役職は一つのポジションであり、皆に使命があることを忘れてはならない。さまざまな立場の人が団結し、力を出してこそ、広宣流布を進めることができるんです。役職は、人間の上下の関係などでは断じてありません。
 私は、三十数年間、多くの学会員を見てきました。その結果としていえることは、“策の人”は長続きしない。“要領の人”は必ず行き詰まっていく。“利害の人”は縁に紛動されてしまう――ということです。
 結局は、求道の人、着実にして地道な信心の人、生活という足元をしっかりと固めてきた人が、人生の勝利者になっています」
89  勝ち鬨(89)
 山本伸一は、九日も、茨城文化会館落成記念の勤行会に出席し、水戸、鹿島、常陸から集った同志二千人を激励した。彼は訴えた。
 「仏の異名を『世雄』という。世間にあって、勇猛に民を導く人のことです。ゆえに御本仏・日蓮大聖人の門下である私たちは、どこまでも現実社会の荒海のなかで信頼を勝ち取る、力あるリーダーでなければならない。
 また、仏の別名を『能忍』ともいう。五濁悪世の娑婆世界、すなわち忍土に出現し、悪をよく忍び、慈悲を施す人のことです。大聖人の大難を思えば、私たちの難など、まだまだ小さい。信心は忍耐です。大聖人門下ならば、何があっても微動だにしない信心に立つことです。現実という嵐に挑み、耐え忍んで、人生勝利の旗を掲げてください」
 十日には、日立市に足を延ばし、日立会館落成五周年の記念勤行会に出席した。
 席上、伸一は、こう提案した。
 「水戸藩第二代藩主の徳川光圀が、この辺りの海上に朝日の昇るさまを見て、領内一の眺めであると賛嘆したことから、『日立』と呼ばれるようになったという。そこで、それにならって、組織の表記を、『常陸圏』から『日立圏』へと改めてはどうだろうか」
 皆、大喜びで、賛同の大拍手で応えた。
 十一日には、茨城文化会館で盛大に開催された県青年部総会参加者三千五百人と、構内の旭日庭園で記念のカメラに納まった。そして、このメンバーで「茨城男子二〇〇〇年会」「茨城女子二〇〇〇年会」が結成された。
 さらに同日、宗門事件の嵐が吹き荒れた鹿島の鹿島会館を初訪問し、第二代会長・戸田城聖の生誕記念勤行会を厳粛に執り行い、鉾田での鹿島地域本部の代表者会議に臨んだ。
 翌十二日には、石岡を経由し、土浦文化会館の開館三周年を記念する勤行会に出席し、場外の参加者とも記念撮影するなど、寸暇を惜しんで激励を重ねたのである。
 同志は勝った。凱歌の旭日は昇った。
 伸一の力走は続き、全国各地で師弟共戦の勝ち鬨を轟かせていった。

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