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日蓮大聖人・池田大作

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第30巻 「雄飛」 雄飛

小説「新・人間革命」

前後
63  雄飛(63)
 チーホノフ首相と会見した十四日夜、山本伸一は、宿舎のホテルで、お世話になった関係者をはじめ、各界の来賓を招いて、答礼宴を開いた。
 そして翌日、モスクワ市内にあるトルストイの家と資料館を訪れた。
 十九世紀に建てられたまま保存されている文豪の住まいは、木造二階建てで、床はギシギシと軋んで、往時を偲ばせた。彼は晩年の十九年間を、この質素な家で過ごした。書斎には、テーブル、イス、ペン立て、インク壺などが、当時のままの状態で置かれていた。彼は、ペチカ(暖炉)の薪割りも自分でした。その時に使った前掛けも展示されている。
 この家で、最後の大作である『復活』や、数々の名作が誕生したのだ。
 さらに一行は、資料館に足を運んだ。天井の高い、重厚な歴史を感じさせる建物には、トルストイの小学生時代の作文や、終生、書き続けた日記、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の原稿、彼の彫像や肖像画などが展示されていた。
 なかでも伸一の目を引いたのが、検閲された原稿の隣に置かれた、緑色のガラス製の文鎮であった。そこには多くの署名とともに、トルストイを絶讃する言葉が焼き付けられていた。ガラス工場の労働者が贈ったものだ。
 ――「あなたは時代の先駆者である多くの偉人達とその運命を同じになさいました」「ロシアの人民はあなたを自分らの尊く慕わしい偉人と数えて、永遠にこれを誇りとするでございましょう」(ビリューコフ著『大トルストイIII』原久一郎訳、勁草書房)
 トルストイは、貧困を強いられる民衆の救済に力を注ぐ一方、ペンをもって、堕落した教会や政府などの、あらゆる虚偽、偽善と戦った。それゆえに、彼の著作は厳しい検閲を受け、出版を妨害され、彼は教会から破門されている。だが、激怒した民衆が彼を擁護し、澎湃たる正義の叫びをあげたのだ。
 目覚めた民衆が聖職者の欺瞞を見破り、真に民衆のため、人間のための宗教を求めたのだ。民衆の英知は、宗教を淘汰していく。
64  雄飛(64)
 トルストイは、真実の宗教とは何か、真の信仰とは何かを見すえ続け、探究していった。
 彼は、人間のなかに「神」を見いだしていったのである。それは、教会で説く「神」ではなく、人間精神の最高峰であり、良心の結晶としての「神」であった。そして、世界の平和と人びとの幸福のために、人間の道徳的回生と暴力の否定、「無抵抗」をもってする悪への抵抗を説いた。その主張は、国家権力と癒着した当時のロシア正教会の教えとは相反するものであった。
 ゆえに、彼の著作は、『復活』に限らず、『わが信仰はいずれにありや』『神の王国は汝らのうちにあり』などの宗教論も、国内での出版は難しく、地下出版や国外での発刊を余儀なくされたのである。
 「罵詈の声は後世から光栄の響きとして受け取られます」(『ユーゴー全集第10巻』神津道一訳、ユーゴー全集刊行会=現代表記に改めた。)とは、彼に大きな影響を及ぼしたビクトル・ユゴーの言葉である。
 政府や教会が、躍起になってトルストイを抑え込もうとするなかで、彼を支持したのは民衆であった。それによって、さらに世界の賞讃と信望を集めたのだ。あのマハトマ・ガンジーも、彼に共鳴した一人である。
 教会による「破門」も、全くの逆効果となった。世界が味方するトルストイに、政府も教会も、迂闊に手を出すことはできなかった。
 弾圧の矛先は、彼の弟子たちに向けられ、チェルトコフは国外追放された。また、ビリューコフは八年にわたって辺地に追放されたが、決して屈することなく、後に、師の真実と偉大なる歩みを残そうと、伝記『大トルストイ』を完成させている。
 トルストイを支持する民衆も弾圧にさらされ、発禁になった彼の本を持っているだけで逮捕された。しかし、民衆の支持は揺るがなかった。人びとは彼の誠実を痛感し、彼のめざす宗教の在り方に共感していた。
 宗教の価値は、人間に何をもたらすかにある。勇気を、希望を、智慧をもたらし、心を強くし、あらゆる苦悩の鉄鎖からの解放を可能にしてこそ、人間のための宗教なのだ。
65  雄飛(65)
 トルストイの家と資料館を見学した山本伸一は、大文豪の生き方に勇気を得た思いがした。伸一は、トルストイが、最後の日記に残した言葉を噛み締めていた。
 ――「なすべきことをなせ、何があろうとも……」(『トルストイ全集58』フドージェストヴェンナヤ・リチェラトゥーラ(ロシア語))
 伸一は、「世界平和」即「世界広宣流布」という、生涯をかけて挑み抜かねばならない使命を深く感じていた。
 一行は、さらに国民経済達成博覧会の宇宙館も視察した。人工衛星などの展示に、あらためて宇宙開発にかけるソ連の意気込みを感じた。案内者に、伸一は感想を語った。
 「すばらしい技術力です。この優れた科学技術の力を、人類の平和と繁栄のために活用してください。世界中の人びとが、それを望み、期待しているでしょう」
 十六日は、八日間にわたるソ連訪問を終えてヨーロッパ入りし、西ドイツのフランクフルトに向かう日である。
 出発前、伸一たちは、エリューチン高等中等専門教育相夫妻に招かれ、モスクワ川とボルガ川を結ぶ運河を周航しながら懇談した。教育交流をめぐっての語らいに熱がこもった。船窓から見る岸辺には、美しい緑の景観が広がっていた。この運河によってモスクワは、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海、黒海の五海洋につながる内陸水路の要衝となり、いわば“港町”になったという。
 伸一は、教育交流は運河を建設することに似ていると思った。それは、国家やイデオロギー、民族等に分かたれた人間と人間とを、未来に向かって結び合い、平和の大海に至る友情の“港町”を創る作業であるからだ。
 伸一の一行は、午後七時、モスクワ大学のログノフ総長らの見送りを受け、モスクワのシェレメチェボ空港を飛び立った。サマータイムの北の都モスクワでは、まだ太陽は、まぶしいばかりに輝いていた。降り注ぐ光のなか、搭乗機は大空高く飛翔していった。
 “欧州では、大勢の同志が待っている!” 伸一の胸は躍った。

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