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日蓮大聖人・池田大作

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第29巻 「力走」 力走

小説「新・人間革命」

前後
67  力走(67)
 徳島県の幹部総会では、県の組織が一圏三地域本部としてスタートすることが発表されるなど、明「人材育成の年」への、晴れやかな助走の総会となった。
 山本伸一は、あいさつのなかで、「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」の御聖訓を拝して指導した。
 「ここでは、私どもの信心の在り方を示されております。すなわち、断じて退転することなく、偽りのない強盛な信心を貫き、一切を御本尊様にお任せしきって、仏の言葉通りに仏道修行に励んでいきなさい。そうしていくならば、後生はもちろんのこと、今生においても、安穏な長寿の人生を飾り、すばらしい大功徳を受け、広宣流布の大願も成就していくことができるとの仰せなんです。
 つまり、生涯を信心に生き抜こうと心を定める″覚悟″こそが、一切の勝利の原動力であることを知っていただきたい。
 どうか、徳島の皆さんは、清流のように清らかな、たゆむことのない信心を貫き、明年もまた、悠々と師子のごとき一年を送ってください。お元気で!」
 その後も伸一は、県の代表幹部と懇談し、希望あふれる徳島の未来図を語り合った。
 四国指導最終日の十三日もまた、四国研修道場を出発する間際まで、役員らと共に勤行するなど、激励に終始した。
 この日、伸一が学会本部のある東京・信濃町に戻ったのは、午後八時近くであった。幹部からの報告や、多くの決裁書類などが彼を待っていた。間断なく奮闘は続いた。
 トインビー博士は『回想録』に記している。
 「常に仕事をしていること、しかも全力を出して仕事をしていること、これが私の良心が義務として私に課したことであった」(A・J・トインビー著『回想録I』山口光朔・増田英夫訳、社会思想社)
 伸一もまた、同じ信念をもって一瞬一瞬を過ごした。自身の人生と民衆の勝利のために。
68  力走(68)
 四国から帰った翌十四日からも、山本伸一のスケジュールはびっしりと詰まっていた。
 教育部の記念勤行会や本部幹部会、ソ連の対外友好文化交流団体連合会(対文連)の議長らとの会談や、東京・八王子圏の代表幹部会、東京支部長会、千葉県支部長会、茨城県支部長会、イギリス・オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授との会談など、片時の休みもなかった。
 ″今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ!″
 こう自分に言い聞かせての敢闘であった。
 そして、十二月の二十六日には、関東指導に出発したのだ。栃木県の足利会館を初訪問し、勤行会に出席。二十七日には、群馬県高崎市の群馬センターを訪れ、勤行会等に臨み、翌二十八日もまた、同センターで大ブロック幹部を対象に勤行会を開催した。さらに、約十年ぶりに高崎会館を訪問し、この日午後九時前、学会本部に戻った。
 彼は大晦日まで、創価大学や創価学園の教員らとの懇談会や、聖教新聞社での原稿の執筆など、全力で行動を続けた。
 嵐吹き荒れる激動の一年であった。創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年であった。新しき歴史を築いた建設の一年であった。
 この一年間で訪問したのは、北は北海道、南は九州まで十方面、一道二府二十五県となり、海外では第四次訪中も果たした。
 会談した主な識者や指導者は、国内外で二十数人を数えた。
 また、作詞した各部や各地の学会歌は、実に三十曲ほどになっていた。
 大晦日の夜、帰宅して、門前に立った伸一は、空を仰いだ。星辰の瞬きが諸天の微笑みのように思えた。激戦、激闘を重ねた、必死の舵取りの一年が終わろうとしていた。彼の胸中には、微塵の後悔もなかった。ただただ師子の闘魂が、熱く熱くほとばしっていた。
 ″風よ吹け、波よ立て。われは征くなり″
 心燃え立つ伸一の頰には、冬の外気が心地よかった。

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