Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「激闘」 激闘

小説「新・人間革命」

前後
67  激闘(67)
 本部幹部会で山本伸一は訴えていった。
 「日蓮大聖人は、『本迹の相違は水火天地の違目なり』と仰せになっております。迹門と本門とは、大きな違いがあることを述べられている御文です」
 迹門の「迹」とは影、跡のことで、本門の「本」とは本体を意味する。たとえば、天空の月を「本」とすれば、池に映った月は「迹」である。また、「門」とは法門のことである。
 この「本」と「迹」をもって、法華経二十八品を立て分けると、前半十四品は「迹門」となり、後半十四品は「本門」となる。
 それは、法華経の前半は、初めて菩提樹の下で成道した釈尊の所説を記した経文であるからだ。その釈尊は、仏が衆生を救うために顕した仮の姿、迹仏にすぎないのだ。
 一方、法華経の後半が「本門」となるのは、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に成仏していたという、仏の本地、真実が明かされた法門であるからだ。久遠以来、仏は、この娑婆世界で永遠に戦い続けている――これが本門の教えである。
 伸一は力説した。
 「日蓮大聖人の法華経文底から見れば、南無妙法蓮華経が『本』であり、文上の法華経は、迹門、本門ともに『迹』となるのであります。それは、南無妙法蓮華経こそが、末法流布の大法であるからです。
 大聖人の仏法を広宣流布していく私どもの立場から、この『本』と『迹』について考えるならば、次のようにとらえることができます。
 広宣流布を口にしても、本当の実践がなく、ただ単に、観念的な理論を振り回しているだけであれば、それは『迹』にすぎません。
 それに対して、現実のうえでの実践、振る舞いこそが『本』となります。広宣流布を推進するために、実際に諸活動に参加する。功徳の実証を示し、信仰体験をもって、仏法対話を展開していく――そうした事実上の行動こそが、最も重要な『本』なんです。
 つまり、いちばん大事なことは、″現実に広宣流布のために何をしたか″ということです」
68  激闘(68)
 貧しさに耐え、病に苦しみ、蔑まれ、諍いに疲れ、生きる気力さえ失った友を励まし、その心に、妙法という勇気と希望と蘇生の火をともし続けてきたのは誰か!
 社会の底辺に追いやられてきた民衆を、社会建設の主体者として立ち上がらせ、立正安国の道を切り開いてきたのは誰か!
 冷笑、非難、中傷、罵詈、罵倒……の飛礫にさらされても、友のために、不幸に泣く人のために、汗を流し、足を棒にして、来る日も、来る日も、広宣流布に走り抜いてきたのは誰か!
 上品ぶった偽善家は眉をひそめて見て見ぬ振りをし、保身の批評家が背を向けた、苦悩する人びとのなかに、創価の同志は飛び込み、事実の上に、民衆勝利の旗を打ち立ててきたのだ。
 本部幹部会で、山本伸一は力強く訴えた。
 「広宣流布を現実に推進している創価学会の活動こそ、社会の一大変革運動であります。そして、それは、地涌の菩薩の行の実践であり、日蓮大聖人の『本門』の教えの実践にほかなりません。私どもは、『本門』の大道を進む誇りを胸に、勇躍、新たな前進を開始していこうではありませんか!」
 賛同の大拍手が起こった。
 ″単なる決意に終わってはならない。勇気ある行動だ! 果敢なる実践だ!″
 参加者はほおを紅潮させながら、広宣流布を誓願し、平和原点の地・広島から、新しい挑戦への第一歩を踏み出したのである。
 五月二十一日、伸一は、首脳幹部との協議の合間を縫い、会館に集ってきた人びとを個人指導するなど、激励に次ぐ激励を重ねた。さらに、メンバーと勤行もした。
 そして、午後一時半過ぎ、広島文化会館を発って岡山へ向かった。岡山県女子部の第一回合唱祭に出席するためである。
 伸一の体調は、決して思わしくなかった。疲労が蓄積していた。しかし、「岡山へ行こう。女子部が待っているんだもの。励ましたいんだ」と、車に乗り込むのであった。
69  激闘(69)
 岡山県女子部の合唱祭は、五月二十一日午後四時前から、岡山文化会館(現在の岡山南文化会館)で開催された。
 ♪ああ新世紀 時来たる
  今ひらけゆく 金の道
  春の曙 創価山 創価山
  私の あなたの 青春桜
 合唱祭のフィナーレは、七百五十人の出演者による女子部歌「青春桜」の大合唱であった。この歌は、二カ月前の三月十六日に行われた青年部総会を記念して発表されたものだ。
 山本伸一が女子部長らに、「歌詞を見てください」と頼まれ、筆を加えた歌である。彼は、全生命を注ぐ思いで、新時代を開く″魂の歌″にしようと、詞を練り上げていった。手直しした箇所があまりにも多く、出来上がった歌詞は、ほとんど原形をとどめていなかった。
 女子部員は、伸一の心をかみ締め、この歌とともに、新世紀へのスタートを切ったのだ。
 合唱祭は美事であった。伸一は、はつらつとした歌声に未来への希望の光を見た。
 中国広布は、草創の時代、岡山を中心に進んできた。その後、広島が中国方面の事務機構の中心となった。しかし、岡山は″中国の雄″との誇りと気概をもち続けてくれていた。合唱祭には、その心意気からほとばしる、歓喜と躍動の音律が弾んでいた。伸一は嬉しかった。
 あいさつに立った彼は、宣言した。
 「広宣流布の大情熱を、信心の結晶を、私は見ました! 岡山は、まことに健在であることを天下に証明しました! 勝利しました」
 既にこの年、伸一は、東京を除いて、四国、関西、関東、東海道、中部、九州、中国の七方面、十六府県を訪問していた。
 ″命ある限り、私は戦う。仏子には指一本も差させぬ。魔軍よ、嵐よ、われに競え!″
 闘魂が、無限の大生命力を涌現させる。
 彼は、二十二日に東京に戻ると、二十七日には東北へ飛んだ。

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