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日蓮大聖人・池田大作

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第27巻 「正義」 正義

小説「新・人間革命」

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65  正義(65)
 二十四日の午後二時半、三重文化会館に到着した山本伸一は、居合わせた近隣の会員と記念撮影し、皆で一緒に勤行をした。
 さらに、県の代表幹部との懇談会に臨み、意見に耳を傾け、質問に真心を尽くして答えた。また、移動の車中で作った歌などを、参加者に贈った。
 そして、三重支部結成十八周年の記念幹部会に出席したのである。彼は、この席でも、個人指導の重要性について訴えた。
 「日蓮大聖人は、四条金吾や南条時光をはじめ、多くの弟子たちに御手紙を与えられた。その数は、御書に収録されているものだけでも、実に膨大であります。
 それは、何を意味するのか。一言すれば、広宣流布に生きる一人ひとりの弟子に対して、″何があろうが、断じて一生成仏の大道を歩み抜いてほしい。そのために、最大の激励をせねばならない″という、御本仏の大慈大悲の発露といえます。
 一人でいたのでは、信心の触発や同志の激励がないため、大成長を遂げることも、試練を乗り越えていくことも極めて難しい。
 私どもが、個人指導を最重要視して、対話による励ましの運動を続けているゆえんも、そこにあるんです。
 また、聖教新聞などの機関紙誌を読み、学ぶことも、信仰の啓発のためであり、信心の正道に生き抜いていくためです。
 自分一人の信仰では、進歩も向上も乏しい。我見に陥り、空転の信心になりやすい。ゆえに広宣流布のための和合の組織が必要不可欠であることを、私は強く訴えておきたい」
 伸一にとっては、一回一回の会合が、一人ひとりの同志との出会いが、生命触発の″戦場″であった。真剣勝負であった。広布破壊の悪侶らは次第に数を増し、牙を剥き、愛する同志を虎視眈々と狙っていたからである。
 伸一は、翌二十五日には、舞台を関西に移し、ここでも同志の激励に全生命を注いだ。
 魔の執拗な攻撃を打ち破るには、正義の師子吼を発し続けるしかない。
66  正義(66)
 山本伸一は、関西では、創立者として創価女子学園を訪問したほか、関西牧口記念館、兵庫文化会館などを次々と訪れた。
 行く先々で同志と記念のカメラに納まり、懇談会等をもち、入魂の励ましに徹した。
 四月二十八日には、関西センターでの立宗記念勤行会に出席。創価の風雪の歴史は、法華経に説かれた「猶多怨嫉。況滅度後」(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)の通りであり、学会こそ如説修行の教団であると力説した。
 また、二十九日は、関西戸田記念講堂での大阪女子部の合唱祭に臨んだあと、招待した南近畿布教区の僧侶たちと懇談した。
 この日の夜、東京に戻った伸一は、翌三十日、「’78千葉文化祭」を観賞した。ここでも文化祭に招待した県内の僧侶と語らいをもった。彼は、僧侶たちに、讒言に惑わされることなく、宗門を外護して一心に広宣流布をめざす学会の心を理解してほしかった。仏子である会員を大切にしてほしかった。
 会長就任十八周年となる五月三日をめざして、伸一は懸命に走り続けた。烈風が、怒濤が襲いかかるなか、自ら盾となって同志を守り、敢然と「正義」の旗を掲げ続けた。
 学会は、戦時中、軍部政府による大法難にさらされた。戦後も、夕張炭鉱労働組合や、大阪府警・地検による不当な弾圧と戦った。
 そして、牧口、戸田の両会長が日蓮仏法に帰依して満五十年を迎えようとする今、本来ならば、最も創価学会を賞讃すべき僧のなかから、死身弘法の決意で広宣流布を進める学会を悪口し、その仏意仏勅の組織を攪乱しようとする悪侶たちが出たのだ。
 伸一は、時の不思議さを感じた。そして、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」との御文を、噛み締めるのであった。
 ″すべては、経文に、大聖人の御書に、仰せの通りではないか!
 長い嵐の夜は続くかもしれない。しかし、その向こうには、旭日が輝く、飛翔の朝が待っているはずだ!

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