Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第25巻 「薫風」 薫風

小説「新・人間革命」

前後
58  薫風(58)
 懇談会のあと、山本伸一が向かったのは、学会員が営む緒高理容店であった。彼は、店主の夫人である緒高紗智子との約束を果たそうと、訪れたのである。
 ――三日前、緒高紗智子は、北九州市に下宿して大学に通う長男と、北九州文化会館の見学に行った。その時、会館の庭で、会員の激励にあたる伸一と出会ったのである。
 彼女が、佐賀で理容店をしていることを告げると、伸一は言った。
 「北九州の次は佐賀に行く予定なんです」
 彼女は、とっさに、こう言ってしまった。
 「その時には、うちで散髪してください」
 伸一は、笑みを浮かべて答えた。
 「時間が取れたら、お伺いします」
 妻の紗智子から、その話を聞いた、夫の武士は、″俺は、学会員として大した活躍もしないでいる。そんな俺の店に、本当に山本先生は来られるのか……″と半信半疑であった。
 それだけに、伸一が姿を現し、「こんばんは! ご主人ですか」と、握手を求めて手を差し出すと、武士は、現実とは思えず、頭の中が真っ白になった。思わず両手を合わせ、合掌のポーズをとってしまった。
 すると、伸一も微笑んで合掌し、それから再び握手を求めた。
 散髪が始まった。武士が、チョキチョキと軽快なリズムで、髪を整えていった。彼は、腕には自信があった。髪の毛を触ると、その人の体調も、ほぼ察しがついた。
 伸一の髪を整えながら、武士は思った。
 ″髪の毛にコシがない! 長年にわたって、心身を酷使し抜いてきた疲れが、たまっているにちがいない″
 伸一は、広宣流布という未聞の道を切り開くには、会長である自分が、捨て身になって戦わなければならないと心に決め、動きに動き、語りに語り、書きに書き、祈りに祈ってきた。会長就任から十七年、毎日、毎日が、死身弘法の敢闘であった。
 それがあってこそ、末法広宣流布という茨の道を、開き続けることができたのである。
59  薫風(59)
 山本伸一の散髪をしている緒高武士の傍らには、妻の紗智子が立っていた。
 彼女は、次々と、伸一に報告していった。
 ――以前は病に苦しみ、二度も大手術をしたが、一九五九年(昭和三十四年)に入会して以来、次第に健康を回復していったこと。主人は、戦時中、ビルマ(現在のミャンマー)で負傷し、耳が不自由だが、仕事は順調で、店も広げることができたこと。自分は今、ブロック担当員(現在の白ゆり長)として元気に活動に励んでいること……。
 紗智子は、目に涙を浮かべて言った。
 「信心して、本当に幸せになれました。学会のおかげです! 先生のおかげです!」
 その言葉を聞くと、伸一は目を細めた。
 「『学会員になって、幸せになった』という話を聞くのが、私は、いちばん嬉しいんです。そのために、私は戦っているんです。本当に、みんなに幸せになってもらいたい。私自身の幸せなど、考えたことはありません」
 夫の武士が、感極まった顔で伸一を見た。
 ″先生は、やはり、そうした思いで、どんなに疲れ果てても、戦ってこられたんだ!″
 緒高の店を継ぐことになっている養女の智恵と、その夫の春雄も、同行幹部の整髪をしながら、伸一の話を聞いていた。二人は、紗智子から、信心の話を聞かされ、学会を理解してはいたが、入会には至っていなかった。
 伸一は、整髪が終わり、支払いをすますと、緒高夫妻に礼を述べながら、再び武士と固い握手を交わした。
 それから、春雄とも握手し、「あなたも頑張りましょう」と声をかけた。すると、春雄は、「はい。私も信心します」と決意を披瀝したのだ。智恵も一緒に、笑顔で頷いた。
 二人は一カ月後に入会する。また、主の緒高武士は、この日を境に、猛然と信心に励み始め、やがて、ブロック長として活躍するようになるのである。
 薫風に吹かれて、木々の葉が、みずみずしく光り、躍るように、伸一の行くところ、蘇生と歓喜の人間ドラマが広がった。
60  薫風(60)
 佐賀から熊本に向かう五月二十七日も、山本伸一は、朝から激励のため、色紙などに筆を走らせた。そして、早めに昼食をすますと、佐賀文化会館のロビーに出た。県長の中森富夫の両親や、県指導部長になった永井福子の母親らと、会うことにしていたのである。
 一人のリーダーが、自在に活動していくには、家族の協力、応援が必要である。ゆえに伸一は、可能な限り、幹部として活躍している人たちの家族と会い、日ごろの協力に、御礼とねぎらいの言葉をかけるようにしていたのだ。
 陰で支えてくださる方々への配慮、気遣いを忘れない人こそ、本当の指導者である。
 伸一は、中森の両親に、礼を尽くしてあいさつした。
 「息子さんは、佐賀県の歴史に残る人です。ご両親も、それを誇りにして長生きしてください。ご一家の繁栄を心より祈っております」
 また、永井の母親には、こう語った。
 「立派な文化会館もでき、すばらしい佐賀県創価学会になりました。娘さんの奮闘の結果です。ご家族の応援のおかげです。お孫さん、曾孫さんの成長を見届けるため、二十一世紀まで生き抜いてください」
 さらに、佐賀文化会館に集って来た二百人ほどの同志と、共に唱題し、出発間際まで、何曲もピアノを弾いて激励を重ねた。
 薫風が舞い、美しい青空が広がっていた。
 午後一時半前、伸一は、「お世話になりました。どこにいても、″栄えの国″である佐賀県の皆さんに題目を送ります。お元気で!」と言って手を振り、車中の人となった。
 伸一が出発して二十分ほどしたころ、佐賀文化会館の電話が鳴った。伸一に同行していた幹部の弾んだ声が、受話器から響いた。
 「車中、佐賀の県境に架かる諸富橋で、先生が皆さんに句を詠まれました」
  五月晴れ
    佐賀の天地に
      功徳満つ

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