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日蓮大聖人・池田大作

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第22巻 「新世紀」 新世紀

小説「新・人間革命」

前後
53  新世紀(53)
 切り開いた道は、通い合うほどに、広く、堅固になっていく――。
 松下幸之助と山本伸一は、『人生問答』の出版について語り合った後も、交流を重ね、絆は、ますます強く、固くなっていった。
 松下は、一九七五年(昭和五十年)十一月の、広島での本部総会にも出席した。
 東京・八王子の創価大学、大阪・交野の創価女子学園(現在は関西創価中学・高校)にも足を運び、その教育に大きな期待を寄せ、讃辞を惜しまなかった。
 また、伸一が関西から中国訪問に向かう時には、空港まで見送りに来るのである。
 さらに、松下は、しばしば、こう語って伸一を励ました。
 「この乱れた日本を救い、世界の平和と繁栄を築いていく人は、先生しかいません」
 「本当に、日本のため、国民のためを思って、毎日戦っておられる」
 「先生は、日本にとっても、世界にとっても、掛け替えのないお方ですから、くれぐれも十分なご養生のうえ、お体を大切にしていただきたい」
 伸一は、いたく恐縮しながら、人生の先輩からの、身に余る期待と真心の激励として、それらの言葉を受けとめた。
 また、よく松下は、「先生にお目にかかっていると、何かしら元気がわいてくる。お会いできるだけで嬉しい」と語っていた。それは″常に、人に元気を与える人たれ″との指導であったのであろう。
 ある時、予定の時刻より一時間も前に、松下が会見の会場に到着したことがあった。
 「少しでも早くお会いしたかったものですから……」と、屈託のない笑いを浮かべた。
 伸一と松下の会談は、四時間、五時間がかりとなることも珍しくなかった。二人とも、話は尽きないのだ。
 ″日本の未来のために、少しでも語っておきたい! 聞いておきたい!″
 松下の物腰は柔らかであったが、彼の言葉には、そんな気迫があふれていた。
54  新世紀(54)
 東京・信濃町で、食事をしながら歓談した時のことであった。松下幸之助は、突然、座り直して、山本伸一に言った。
 「これから私は、先生を、『お父さま』とお呼びしたい」
 伸一は面食らった。松下は続けた。
 「年は先生の方がお若いが、仏法のこともいろいろとお教えいただいた。私には『お父さま』のように感じられてなりません」
 「何をおっしゃいますか。とんでもないことです。あってはいけないことです。私の方こそ、『お父さま』と呼ばせてください」
 松下は、なかなか折れなかった。結局、互いに「お父さま」と呼ぶことで、ようやく話は収まった。
 伸一は、学ぶことに対して、どこまでも謙虚な、松下の純粋な心に触れた思いがした。
 一九八八年(昭和六十三年)一月、伸一は還暦を迎えた。その時、松下から祝詞が届いた。そこには、こうあった。
 「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ『創価学会』をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁とご活躍をお祈り致します」
 松下はこの時、既に九十三歳であった。しかし、青年にも勝る灼熱の心をもっていた。
 以来、伸一は、その言葉を胸に刻み、SGI(創価学会インタナショナル)の大発展に一段と力を注いだ。そして、世界百九十二カ国・地域を結ぶ、平和と文化と教育の人間主義のスクラムを築き上げていくのである。
 二人の会談は、三十回ほどになろうか。誠心の糸を紡ぎ続け、信頼と友情の錦を織り上げていったのだ。
 ″未来に、人類の幸福と平和を築く、確かなるメッセージを残さなくてはならない!″
 伸一は、そう定め、生命を削る覚悟で時間を捻出し、各界の指導者、識者との対談集、往復書簡集を生み出していったのである。

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