Nichiren・Ikeda
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第20巻 「懸け橋」
懸け橋
小説「新・人間革命」
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73 懸け橋(73)
次いで、トローピン副総長が、感慨をかみしめるように、山本伸一の訪ソの感想を語った。
「山本先生には、もっとソ連にいていただきたい。滞在は、あまりにも短かったように思えてなりません。
しかし、この十日間でソ日両国の強いパイプができあがり、平和の土台が築かれました。将来、両国の友好の歴史のなかで、輝きを放ち続ける訪問になることは間違いありません。
この十日間は、″世界をゆるがした十日間″であったといえます」
『世界をゆるがした十日間』は、アメリカのジャーナリストであるジョン・リードが著した、ルポルタージュ文学の傑作である。ソビエト政権が樹立されることになる十月革命をつぶさに描いた作品である。
副総長は、伸一の訪ソを、この本のタイトルにたとえたのである。
続いて、日本側から、同行メンバーの青年があいさつに立った。
彼は、ここに集った人たちには、なんとしても伸一の本当の姿を、また、真情を知ってもらいたかった。
「今日は、私の思いを率直に語らせていただきます。
山本先生と共に、世界の国々を回るたびに、常に痛感していることがあります。それは、先生が人類の平和を願い、戦争のない世界をつくるために、いかに真剣勝負で臨まれているかということです。
たとえば、皆さんもご覧になっていたと思いますが、山本先生の部屋は、毎日、午前一時、二時になっても、明かりが消えませんでした。
なぜか――。それは、ソビエトの民衆の真の姿を、平和を愛する庶民の心を、日本中の、世界中の人びとに伝えようと、黙々と原稿を書き続けていたからです。
先生は日本に帰れば、多くの行事が待ち受けています。そのスケジュールは過密であり、皆さんの想像をはるかに超えたものであると思います。
したがって、一瞬一瞬が勝負なのです。私は、その誠実で真剣な先生の行動に、深い感動を覚えております」
共感の大きな拍手が起こった。
伸一の動きを、終始、見続けてきたソ連の人たちの、実感でもあったようだ。
74 懸け橋(74)
山本伸一は、同行の青年の、思いもよらないあいさつに驚いて、口を挟んだ。
「私のことは、どうでもいいんだよ。皆さんを讃えるんだよ」
「すみません。どうしても、話さずにはいられなかったんです」
青年はこう言って、話を続けた。
「山本先生の訪ソが成功に終わるようにご尽力くださった、ここにいらっしゃる皆さん方のご苦労も、決して忘れることができません。
皆さん方の部屋もまた、午前二時、三時と明かりが消えなかったことを知っております。
共に平和のために骨身を惜しまないわれわれの仕事に対して、乾杯を提唱します。ボリショイ・カンパイ!」
唱和する皆の声が一つになって、高らかに響いた。一緒に行動するなかで、互いの心がとけ合い、平和を担う気概に結ばれていったのである。
遂に別れの時は来た。
モスクワの秋は一瞬であった。到着した十日前には初秋であったが、白樺も、ポプラも、一日一日、黄葉し、既に吐く息も白くなっていた。
ホフロフ総長夫妻をはじめ、対文連のイワノフ副議長、そして、学生など、多くの人びとがモスクワのシェレメチェボ空港まで、一行の見送りに来た。
総長と伸一は、飛行機のタラップの下でも語らいを続けた。
伸一は言った。
「このご恩は決して忘れません。
今度は、ぜひ、創価大学においでください。また、創価学園にもいらしてください。次は日本で語り合いましょう。
共に力を合わせ、日ソの教育・文化の交流を推進し、平和の大潮流を起こしていきましょう。
私たちの友情は永遠です。時の淘汰に耐えてこそ、真の友人です。
今回、お世話になった学生さんたちのことは、生涯、見守らせていただきます」
総長は、感極まった顔で、伸一の手を固く握り締めた。
伸一は、決意のこもった声で、宣言するように言った。
「あとは、行動をもって示すのみです!」
行動なき決意は虚言である。誓いは実践となって結実する。「誠実の人」とは「行動の人」だ。
75 懸け橋(75)
山本伸一の乗った飛行機が離陸したのは、九月十七日の午後八時ごろであった。
モスクワの街の灯を見ながら、伸一は思った。
″今回のソ連訪問で、数多くの友情の種子を植えることができた。これからは、さらに交流を重ね、大誠実をもって、友情の大樹に育て上げていくのだ″
日蓮大聖人は「火をきるに・やすみぬれば火をえず」と仰せである。
友情もまた持続である。その場限りの交流に終わってしまえば、友情が育つことはない。
″ソ連の人びとも心から平和を願っている。コスイギン首相は中国を攻めないと言明していた。再び中国を訪問し、その言葉を、中国の首脳に伝えなくてはならない。
また、ソ連の首脳や民衆が、どんな考えでいるのかを、中国だけでなく、日本中に、いや、世界中の人たちに伝えていこう″
彼は、その決意を、全力で実行に移した。
訪問中から書き始めたソ連についての新聞や雑誌への寄稿は、帰国後一カ月余りで本一冊分ほどになった。寸暇を惜しんでの執筆であった。
また、十月初めにモスクワ大学のストリジャック主任講師と学生たちが来日すると、伸一は、滞在期間中、創価大学や鹿児島の九州総合研修所(当時)などに招き、交流を重ねた。
今度は伸一が、自ら彼らの運輸担当となり、食糧担当となった。
さらに、十月末からホフロフ総長夫妻らが来日すると、創価大学をはじめ、聖教新聞社や学会本部などで会談し、教育交流の展望を語り合った。
総長との帰国前の語らいでは、伸一はコスイギン首相への親書を託した。総長からは「明春、モスクワでお会いしたい」との、強い要請が寄せられた。
友誼の潮は、二十一世紀の大海原へ、勢いよく流れ始めたのだ。やがてそれは、教育・文化の、そして平和の、大潮流となるにちがいない。
未来を開け! 開墾の鍬を振るえ! 勇敢に、恐れなく、生命ある限り――こう伸一は、自らに言い聞かせていた。
「君よ播け、知性と善と永遠の種を!」とは、チェーホフの戯曲の一節である。