Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「陽光」 陽光

小説「新・人間革命」

前後
49  陽光(49)
 プレ・ハワイ・コンベンションが始まった。
 真っ白いドレスに身を包んだ婦人部の優雅な踊りもあった。フラダンスもあれば、松明を手にしての、勇壮な民族舞踊もあった。
 山本伸一は、一つの演技が終わるつど、立ち上がって拍手を送り、励ましの言葉をかけた。
 ハワイの民族舞踊を踊っている男子部のメンバーに、日本で何度か会った、一人の青年がいることに気づいた。
 中島健治である。
 演技が終わったあと、伸一は彼と会った。
 中島は、日本で学習院大学を卒業し、世界広布の使命に燃えて、ホノルルの語学学校に留学していたのである。
 彼は、かつて総本山で役員の任務についていた時、伸一に声をかけられたことがあった。
 その時、中島は、幼少期に父親が家を出て行き、母親が小さな書店を営みながら、女手一つで兄と自分を育ててくれたことなどを語った。
 すると、伸一は言った。
 「そのお母さんの心を受け継ぎ、広宣流布に一人立つことだよ」
 この励ましが彼の飛躍の原点となった。そして、以前から思い描いていた世界広布に、生きようと決意を固めた。
 一九七三年(昭和四十八年)の十月、中島はハワイに渡る報告をした。
 伸一は、自著の『青年の譜』に「弟子巣立ちゆく新世紀」と揮毫して贈ったのである。
 以来、半年ぶりの再会であった。
 「元気だったかい」
 伸一は尋ねた。
 中島は、雨漏りがしてネズミも出る古いアパートに、二人の友人と住んでいた。仕送りもなく、満足に食べることもできず、苦しい日々を送っていた。
 中島は、伸一に心配をかけまいと、生命力を振り絞るようにして、元気に「はい!」と答えた。
 だが、少しやつれた中島の姿から、伸一は、彼の苦闘を感じ取った。
 伸一は言った。
 「世界広布のために生きようという正義の弟子が育ってくれて、私は嬉しい。
 今は、どんなに辛く、苦しくとも、頑張り抜くんだ。絶対に負けてはいけないよ。
 春になれば、一斉に花が咲くように、今の苦労が花開く勝利の時が、きっとくるよ」
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 各演目が終わると、山本伸一はマイクを取って語り始めた。
 「このすばらしい満天の夜空の下、いよいよハワイは、世界的な焦点の地となるべき松明を掲げました。
 皆さんは、世界平和の原型を構築しゆく″核″となり、また、コンベンション大成功への導火線となっていただきたい。
 そして再び、このハワイの地から、私と共に、世界平和の波を起こしましょう。
 今日は、私が皆さんをお見送りします。皆さん方の熱烈な歓迎に対して、感謝の心を込めて送らせていただきます」
 そして、自ら退場口に立ち、ねぎらいと励ましの言葉をかけ続けた。
 声も嗄れた。握手を交わす手もしびれていた。しかし、伸一は自分の体など、かばおうとは思わなかった。
 ――励ましの陽光を、一人ひとりの胸中深く送ることだ。この光ありてこそ、人の勇気が、希望が、使命が目覚める。
 この生命と生命の絆こそが、創価の金剛の団結をつくっているのだ。
 プレ・ハワイ・コンベンションの終了後も、伸一の激励は続いた。
 彼は、グアム島からもメンバーが参加していることを聞くと、代表を会館の仏間に招き、共に勤行し、懇談した。
 グアムはマリアナ諸島南端に位置する、ミクロネシア最大の島である。
 十九世紀末、スペイン領からアメリカ領となり、第二次世界大戦中には、一時、日本軍の占領下に置かれた。
 そして、これを奪還しようとするアメリカ軍との間で、激しい攻防戦が展開されたのだ。
 日米両軍はもとより、罪もない多くの住民も犠牲になった。
 また、二年前の一九七二年(昭和四十七年)一月には、この島で元日本兵の横井庄一が発見されている。終戦を迎えても、二十六年五カ月もの間、ジャングルに身を潜め続けてきたのだ。
 彼が日本の土を踏んだ最初の言葉が、「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってきました」であった。
 伸一は、そのニュースに接した時、胸が張り裂ける思いがした。
 ″恥ずべきは誰なのか! 国のために死ねと教え、民衆に塗炭の苦しみをなめさせた戦争指導者ではないか!″
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 山本伸一は、グアム島の代表に、島の気候や産業、メンバーの様子などを尋ねていった。
 現地のメンバーのなかには、発見された横井庄一の通訳をしたという人もいるという。
 また、戦時中、日本軍に、死ぬほどの拷問を何度も受けた人もいたというのだ。
 伸一は語り合ううちに、頭のなかで、一つの構想が次第に具体化していった。
 ――彼は以前から、日蓮大聖人の仏法を基調にして、世界平和と全人類の幸福と繁栄をめざす国際団体の、結成の必要性を痛感していたのだ。
 これまで、各国・地域の組織が連帯し、協力し合いながら、仏法を根底に、平和と幸福を築いていくために、「ヨーロッパ会議」「パン・アメリカン連盟」「東南アジア仏教者文化会議」が発足していた。
 伸一は、それをさらに広げ、全世界を一つに結ぶ、「創価学会インタナショナル」ともいうべき、国際団体の発足を構想していたのである。
 核戦争の脅威や地球環境の深刻な悪化、差別、貧困、飢餓など、現代のかかえる諸問題を見ても、国や地域を超えて、世界が連帯して立ち向かわなければならないテーマであるからだ。
 この地球から不幸の二字を絶滅すること――それこそが、われら仏法者の使命である。
 伸一は、その国際団体の結成の時期を、創価学会創立四十五周年にあたる明一九七五年(昭和五十年)の初頭と考えていた。そして、その結成の場所を、世界平和への誓いを込め、戦場の島となったグアムにしてはどうかと構想したのである。
 伸一は、グアムの代表に言った。
 「グアムには、戦争に苦しめられた、悲惨な歴史があります。
 だからこそ、みんなが力を合わせて、グアムを平和と幸福の楽園にしていってください。
 そのための仏法です。そのために、皆さんがいるんです。
 グアムは世界広宣流布の歴史のうえで、大事な意義をもつ地域になるでしょう」
 メンバーは、伸一の言葉が、何を意味するのかはわからなかった。しかし、自分たちの大きな使命を感じ取り、決意を新たにするのであった。

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