Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第16巻 「対話」 対話

小説「新・人間革命」

前後
53  対話(53)
 トインビー博士と山本伸一の対談は、博士の強い要請もあり、対談集として刊行されることになった。
 その編集作業の中心となったのは、日本在住の著名な翻訳家である、リチャード・L・ゲージであった。
 博士と伸一が直接会って語り合った、約四十時間に及ぶ対談以外に、書簡を通してのやりとりもかなりあり、話題も広範囲にわたっていた。
 それを整理してまとめるには、根気強い作業が必要であった。
 編集作業は、対談の録音テープの再生から始まった。
 最も頭を悩ませたのは、日本語と英語への翻訳もさることながら、章立てなどの編集作業であった。
 編集スタッフは、発言内容を系統立てて分類していった。話の順序を入れ替えねばならぬ個所もあった。
 また、個人的な事柄の多くを、対談集から外していった。
 そうして、編集された原稿に、博士と伸一が、それぞれ筆を入れ、言葉不足な部分を補うなどの作業が行われた。
 対談集の名前は、日本語版は、『二十一世紀への対話』と決定した。
 伸一は思った。
 ″本にして残していくということは、永遠に思想を残していくことになる。世界中に本が残っていけば、そこから、平和の道を考え、仏法に限を向けていく人も、少なくないはずだ″
 労作業を経て、日本語版の対談集が完成したのは、一九七五年(昭和五十年)の春であった。
 伸一は、この年五月、ヨーロッパ、ソ連(当時)を訪れ、世界的な学識者と次々と対談を重ねた。
 新しき時代の幕が開いたのだ。
 そのなかには、トインビー博士に紹介された、ローマクラブ創立者のぺッチェイ博士もいた。
 伸一は、博士から託された言葉を生命に刻み、いよいよ″対話の旋風″を、世界に巻き起こしていったのである。
 彼は、このヨーロッパ訪問中、フランスでの、作家のアンドレ・マルローや美術史家ルネ・ユイグらとの対談などの合間を縫うようにして、イギリスに向かった。
 遂に完成をみた対談集『二十一世紀への対話』の特装本を、トインビー博士に届けるためである。
54  対話(54)
 山本伸一がイギリスを訪問した時、トインビー博士は、長期にわたって病気療養中であり、面会は不可能であった。
 伸一は、王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)に博士の秘書を訪ね、丁重な伝言とともに、対談集を託した。
 この一九七五年(昭和五十年)の秋、博士は、対談集の完成を見届けるようにして永眠した。八十六歳であった。
 翌七六年(同五十一年)には、対談集の英語版がオックスフォード大学出版局から発刊された。『CHOOSE LIFE』(生への選択)というのが、その題名である。
 これは博士が『旧約聖書』の申命記の言葉を引用したものだ。
 「私は生と死、および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは生を選ばなければならない。そうすれば、あなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」
 人類よ、生を選べ。人間よ、生き抜け――まさに、そのタイトルには、博士の熱願が込められていた。
 その後、トインビー博士との対談集は、フランス語版、スペイン語版、ドイツ語版、中国語版、スワヒリ語版、トルコ語版などに次々と訳され、出版されていった。
 そして二〇〇四年(平成十六年)現在、この対談集は日本語を含め、二十四言語で発刊されるまでに至っている。
 外国語に訳されたトインビー対談を読んで、大いなる触発を受けたという、世界の指導者や識者も少なくない。
 インドのナラヤナン大統領、チリのエイルウィン大統領、国連のガリ事務総長、ハーバード大学のヌール・ヤーマン教授等々である。
 さらに、対談集は世界の大学や高校で、教材にも使われていった。
 二十世紀を代表する知性であるトインビー博士が、生命を削るようにして紡ぎ出した、未来を照らす平和への珠玉の哲学に、世界が刮目しているのだ。
 イギリスの詩人ミルトンが叫んだように、第一級の書籍は、不滅の生命をもっている。
 伸一は、自分が、その書の対談者に選ばれたことに、深く感謝するとともに、博士の願いを、断じて実現しようと、深く、深く、決意するのであった。
55  対話(55)
 トインビー博士の「世界に対話の旋風を」との言葉を、遺言として受け止めた山本伸一は、国家や民族、宗教、イデオロギーを超えて、世界の国家指導者をはじめ、識者らと、本格的な対話を重ねていった。
 中ソ紛争が一触即発の状況にあった一九七四年(昭和四十九年)九月、彼はソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見。そこで、率直に尋ねた。
 「ソ連は中国を攻めますか」
 「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」
 「中国に伝えていいですか」
 「結構です」
 三カ月後、中国を訪問し、ソ連の意向を伝え、さらに、病身の周恩来総理と会見するのである。
 また、伸一は、翌年一月には、アメリカのキッシンジャー国務長官と会談している。
 ″中ソの紛争を、東西の対立を、いや、この世から戦争を、絶対になくさねばならぬ。その道を開くのは対話しかない″
 その不動なる信念のもとに、彼は走りに走り、語りに語り抜いた。
 対談した世界の主な国家指導者だけでも、ソ連のゴルバチョフ大統領をはじめ、フランスのミッテラン大統領、イギリスのサッチャー首相、インドのラジブ・ガンジー首相、南アフリカのマンデラ大統領、キューバのカストロ国家評議会議長など枚挙にいとまがない。
 また、周総理の夫人である鄧穎超とうえいちょう全人代常務委員会副委員長とも、友誼の対話を重ねた。
 博士との対談以降、伸一が重ねた世界各界の指導者、学識者らとの会談は千六百回を超える。
 それは、ある時には東洋と西洋の対話となり、ある時には仏法の人間主義と社会主義との、また、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教との対話となった。
 その対話が対談集として結実したものも多い。
 ゴルバチョフ元大統領との対談は『二十世紀の精神の教訓』に、ノーベル化学・平和賞受賞者のポーリング博士との対談は『「生命の世紀」への探求』となった。
 海外識者との対談集は三十三冊を数える(二〇〇四年九月現在)。
 対話こそ人間の特権である。それは人間を隔てるあらゆる障壁を超え、心を結び、世界を結ぶ、最強の絆となる。

1
53