Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第16巻 「入魂」 入魂

小説「新・人間革命」

前後
58  入魂(58)
 皇居の向かい側には、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の高いビルが、威圧するかのようにそびえ立っていた。
 雨に打たれながら、山本伸一は、戸田城聖に言った。
 「先生、申し訳ございません。必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
 戸田は、嬉しそうに頷いた。雨の中での師弟の語らいであった。
 千代田の地での、この誓いを、伸一は終生、忘れることはなかった。
 さらに、戸田から、創価教育の学校をつくろうとの構想を聞かされたのも、西神田の会社の近くにあった、大学の学生食堂であり、このころのことであった。
 その思い出深き千代田の、わが同志たちに会えると思うと、伸一の心は弾んだ。
 千代田区は、区の真ん中に皇居があるのをはじめ、国会議事堂や首相官邸、諸官庁、大オフィス街を擁する日本の政治・経済の中心である。
 しかし、それだけに、住宅地は至って少なく、昼と夜の人口の差は激しかった。
 このころ、昼は八十四万人、夜は十二万人といわれていた。
 しかも、年々、住民は減り、さらに、減少傾向が続くことが予測されていた。また、学会の世帯も、決して、多くはなかった。
 だが、そのなかで、千代田の同志は、自分たちが「学会のふるさと」を守り、発展させるのだと誓い合い、深く地域に根を張りながら、真剣に活動に取り組んできた。
 伸一は、記念撮影会を前に、千代田の同志が、どうすれば未来に向かって、誇りと希望を見いだしながら、喜々として活動に励んでいけるか、思案し続けた。
 そして、当日、記念撮影会に参加する七百五十人で、グループを結成してはどうかと考えた。
 ――名称は「千代田七百五十人会」とし、区内から移っていった人は兄弟会となる。その分、区内のメンバーから補充するようにしてはどうか。
 つまり、常に千代田の同志によって、七百五十人会は構成され、そのメンバーが、千代田の広宣流布の責任をもち、原動力となって前進していくのである。
59  入魂(59)
 創価文化会館での千代田区の記念撮影会に出席した山本伸一は、マイクを取ると、最初に「千代田七百五十人会」の結成を提案した。
 歓声がわいた。
 「当面は、第七の鐘が鳴り終わる昭和五十四年(一九七九年)をめざして、毎年、春と秋の年二回、学会本部などに集まってはどうだろうか。
 そして、勤行をしてもよい、楽しく交流を深めてもよい。
 ともかく、地域広布への誓いを胸に、互いに切磋琢磨し合いながら、進んでいっていただきたいのであります。
 私も、可能な限り、出席いたします。出られない時は、誰か代理に出席してもらうこともあるかと思いますが、その日を前進の節にしながら、共に広宣流布の大使命に、生き抜いていこうではありませんか!」
 誓いと賛同の大拍手がこだました。
 この日は、日本の中核たる千代田の、新しき船出となったのである。
 後年、「千代田七百五十人会」は、さらに十人のメンバーの追加が決議され、七百六十人会となっていくが、このメンバーが、千代田の核となって、盤石な広布の礎が築かれていったのである。
 四月、伸一は関西指導に赴き、大阪で堺・泉州のスポーツ祭や大学会の結成式などに出席し、激励の歩みは、奈良、兵庫にも及んだ。
 そして、四月の二十九日には、約一カ月にわたる、ヨーロッパ、アメリカ訪問に出発することになる。
 広宣流布とは、虐げられ続けてきた民衆が、社会の主体者となり、勝利と幸福の旗を掲げる、人類史の転換のドラマである。それだけに伸一には、一瞬の逡巡も、また、失敗も、絶対に許されなかった。
 ロマン・ロランは、鋭い警鐘の矢を放った。
 「行動して然るべき瞬間に行動しない者、その者は戦う以前に敗れ去っている」
 伸一は、決して時を逃さなかった。瞬間、瞬間が、真剣勝負であった。
 彼は、わが命を炎と燃やして、入魂の指導を続けた。そして、あの地、この地で、庶民の英雄が立ち上がっていった。
 それこそが、創価の新しき勝利の原動力となっていったのである。   (この章終わり)

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