Nichiren・Ikeda
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43 開花(43)
学会の登山部長をしている平原恵介が、直ちに宗務院と連絡を取った。
電話に出た宗門の渉外部長は言った。
「こちらにも富士宮市長から、同じ要請がありましたよ。どうしましょうかね」
「ぜひ、受け入れさせてください。また、大講堂などを開放するようにお願いします」
「そうですか。大変なことになりましたな。では、検討して、後ほど、折り返し電話をします」
ほどなく連絡がきた。
「こうした事態ではやむをえませんね。まあ、受け入れるしかないでしょう。
以前、ジャンボリーの運営本部から、何かあった時の緊急避難先にしてほしいという話あったんですが、まさか、現実になろうとは……」
「えっ、そんな話があったんですか!」
平原は、憮然とした。
″ジャンボリーの開催日程は学会の夏季講習会と重なっているのだ。当然、宗門は、その時点で学会と連絡を取るべきではないか。
連絡があれば、学会としては、そのための万全な構えを整えて、夏季講習会を行っていたはずである……″
連絡、報告の漏れや不正確さは、物事を破綻させる元凶となる。だが、そのことに気づかず、安易に考えてしまうところに恐ろしさがある。
平原は″なぜ、すぐに連絡をくれなかったのですか″と言おうとしたが言葉をのんだ。事態は急を要していたからだ。
宗門の渉外部長は「あとは任せますので、学会の方で責任をもってやってください」と言って、電話を切った。
ロシアの哲学者ベルジャーエフは訴えている。
「自己の救いとは、隣人を救い、他人を救い、この世を救うことがあってこそ、はじめて可能なのである」
それから平原は、すぐに富士宮の市長に電話で連絡を取り、受け入れることを告げた。
市長は言った。
「本当に助かります。 早速、バス三十五台でピストン輸送します」
世界ジャンボリーは、世界各国のボーイスカウトがともにキャンプをしながら、相互理解と友情を深め合う大会である。
静岡県富士宮市の朝霧高原で行われたこの大会は、日本での初めての開催であった。
44 開花(44)
朝霧高原での世界ジャンボリーは、八月二日から十日までの予定で開催され、世界八十七カ国・地域から二万三千人のボーイスカウトが集ったのである。
初日の二日は、好天のなかで幕を開け、鮮やかな富士の雄姿を仰ぎ見ることができた。
三日夜も、十三夜の月が冴え渡っていた。
しかし、四日の夕刻から、激しい雨が断続的に降り始め、台風十九号の接近にともない、次第に風も強まっていった。
野営地は標高七二〇メートルから八六〇メートルに位置していた。
豪雨は濁流となって草原を駆け下り、テント内に浸水。窪地には五十センチを超す水が溜まったのである。
五日の未明には、テントを移動したり、ほかのテントに緊急避難するなど、野営地は大騒ぎとなった。
ずぶ濡れになって避難する少年たちは、寒さに震えていた。
夜が明けると、風雨はさらに激しさを増した。
浸水したり、強風に吹き飛ばされるテントが続出した。ほぼ水没した野営地もあった。
五日の午後四時から、世界ジャンボリーの運営本部では緊急会議を開いた。暴風雨は、翌日まで続くと判断せざるをえなかった。
被災したメンバーについては、安全な場所に避難させるしかない。避難が必要な人数は参加者全体の四分の一にあたる約六千人である。
そんな大人数を、緊急に受け入れてくれるところがあるだろうか。大石寺には、事前に頼んだが回答はなかった――運営本部の関係者は、祈るような気持ちであった。
常に不測の事態を考慮し、万全を尽くしておくことは、リーダーの責務といってよい。
「避難させたい」との運営本部の決定を受け、早速、静岡県、富士宮市、自衛隊、バス会社が運営本部と合流して、「緊急待避対策本部」が設けられた。
そして、富士宮の市長を通じて、一括収容が可能な大石寺に、避難場所を提供してほしい旨の要請をしたのである。
学会側から、受け入れ了承の連絡が入るや、バスを使って、直ちにボーイスカウトの大石寺への移動が始まった。
45 開花(45)
避難者の受け入れが決まると、大石寺の雪山坊にいた山本伸一は、幹部たちに言った。
「避難して来るボーイスカウトのメンバーは、ずぶ濡れになり、さぞかし心細い思いをしているにちがいない。
だから、みんなで盛大に歓迎しよう。
温かいシャワーも使えるようにして、毛布の用意もするんだ。
大講堂の一階には、机やイスを出し、電話も引いて、ボーイスカウト受け入れの歓迎指揮本部を設置しよう」
彼は、矢継ぎ早に指示すると、雪山坊を飛び出し、車で総本山の売店に向かった。
時計の針は、午後六時十分を指していた。
風雨は、車の窓ガラスを叩きつけるように激しく打っていた。
売店に着いた彼は、販売しているタオルに手を伸ばしながら尋ねた。
「これは一束で何枚になっていますか。全部で何枚、用意できますか」
いつもは笑顔で、包み込むように声をかけてくる伸一だが、切迫した声であった。
売店の人が、緊張した表情で答えた。
「とりあえず、これで八百枚です」
「わかりました。これは、全部、購入します」
伸一は、雨に濡れたボーイスカウトには、まず最初に必要なのはタオルであると考え、自ら購入に走ったのである。
配慮とは、相手の立場に立ってものを考えることから始まる。そこから″かゆいところに手が届く″ような、的確な対応が生まれる。
瞬間、瞬間、相手を思い、最大の誠意を尽くすなかに、人間性は輝きを放つのである。
伸一は車を運転してくれている青年に言った。
「タオルを積んだら、大至急、数息洞に向かってください!」
数息洞は、普段は、参詣者の休憩施設として使われてきた建物で、避難者の第一陣を、まず、ここに受け入れることにしていたのである。
朝霧高原から大石寺までは、車で二十分ほどであり、伸一が数息洞に着いた時には、ちょうど、第一陣のメンバーが到着した時であった。
バスから降りてくるボーイスカウトたちは、雨で、びしょ濡れになり、靴や足は泥まみれになっていた。疲れて、ぐったりとした少年もいる。
46 開花(46)
山本伸一は、ボーイスカウトの少年たちに、快活に声をかけた。
「ようこそ! 皆さんを歓迎します」「安心して、くつろいでください」「どうか、風邪をひかないように!」――こう一人ひとりに語りかけながら、用意したタオルを手渡していった。
そこに、ボーイスカウトの日本連盟の理事長がお礼にやって来た。
「このたびは、緊急にもかかわらず、受け入れていただき、本当にありがとうございます」
伸一は、笑顔で包み込むように言った。
「大変でしたね。
世界各国から来られた未来を担う人たちです。私どもも、全力で応援させていただきます。
雨に濡れたので、風邪をひく人が出なければよいと願っています。
食料も、毛布も用意します。シャワーも利用できるよう手配しております。私どもの友情です」
こう言って差し出した伸一の手を、理事長は感無量といった顔で、強く、強く握りしめた。
窮地という闇夜に光るのは、人を思いやる心と行動である。それは、人への尊敬から発する、誠実の火といってよい。
アメリカの第三十二代大統領の夫人エレノア・ルーズベルトは、「文明社会のあらゆる人間関係の基となっているのは、相互の尊敬である」と述べている。
それから伸一は、大講堂に向かった。雨は断続的に降り続いていた。
大講堂の前に立つと、伸一は言った。
「これからメンバーが次々と大講堂に到着することになるから、この周辺に歓迎のかがり火をたこう。
みんな、元気が出るし、安心するから。すぐに用意をしよう!」
大講堂のロビーには、トレニアとイスが運ばれ、歓迎指揮本部がつくられていた。
「ここには、誰にでもわかるように、大きく『指揮本部』と書いて張り出そう。英語でも書くんだよ。
ところで、今、大講堂でやっている会合は?」 役員の青年が答えた。
「午後六時から、高等部の全国部員会が行われています」
「ここにもボーイスカウトを収容することになるので、少し早めに終わってもらおう。国境、民族を超えた国際友情のためだもの」
47 開花(47)
山本伸一は、さらに、こう提案した。
「ボーイスカウトは世界から集まって来ているんだ。高等部の語学委員会や英語ができる
メンバーで通訳団をつくろう。言葉が通じないほど不安なものはないからね。 大至急、高等部員に協力を呼びかけてほしい」
伸一の指示を受けて、幹部が走った。
高等部の全国部員会で、担当幹部が、マイクを通して呼びかけた。
「ただ今、世界ジャンボリーに参加したボーイスカウトのメンバーが、台風のために総本山に避難してきております。
通訳が必要ですので、英語に自信がある人は手をあげてください!」
嬉しいことに、直ちに百五十人ほどの手があがった。すぐに会場から出てもらって、避難してくるボーイスカウトの通訳と世話を頼んだ。
「日ごろの勉学が役に立つ」と、メンバーは大はりきりであった。
伸一の陣頭指揮のもとに、青年部の幹部も、輸送班も、高等部員も、皆が一体となり、歓迎と受け入れの歯車が、轟音をあげて回り始めた。
伸一の指示は、間断なく発せられた。
「怪我をした人や病気になった人もいるかもしれないので、医者にも来てもらうように!」
「次のバスは何時何分に到着するのか、すぐに掌握を!」
「毛布の数は、全部で何枚あるのか、直ちに報告すること」
「食料品は、何と何が幾つ確保できたか、そのつど、報告を!」
伸一は、あいまいさを許さなかった。一つ一つ厳しく確認した。
もし、緊迫した状況のなかで、いい加減な情報に基づいて物事が進められれば、大失敗や大事故につながる。正確さこそが、行動の生命だ。
伸一たちの奮闘を目の当たりにしていた音楽隊、鼓笛隊から、「避難してくるボーイスカウトの歓迎演奏をさせていただきたい」と申し出があった。
皆が心を一つにして、自分に何ができるかを考える時、自ずから、よき提案が生まれる。
伸一は言った。
「ありがとう! みんなで大歓迎しよう。世界のボーイスカウトにとって、いい思い出をつくってあげたいんだ。
明るく、にぎやかな演奏を頼むよ」
48 開花(48)
山本伸一の指示は、素早く、的確であり、しかも詳細であった。
「みんな、おなかを空かせているだろうから、最優先して確保するのは、パンなどの食べ物やジュースだ。
少年たちにとっては、空腹ほど辛いものはないからね」
こう言うと、彼は自ら指揮本部に設置された電話を取り、売店に残っている食べ物を聞き、注文していった。
午後七時二十分、かがり火の用意ができた。
ボーイスカウトの乗った第二陣のバスが、次々と到着し始めた。
途中から、全国部員会を終えた高等部員たちも大講堂前に並んだ。
赤々と燃えるかがり火と、音楽隊、鼓笛隊の奏でる軽快な調べ、そして、高等部員の温かい大拍手に迎えられたボーイスカウトの少年たちは、驚きを隠せなかった。
不安そうに、寒さに震え、背中を丸めてバスを降りたメンバーの顔にも、安堵と喜びの花が咲いた。
伸一も、指揮本部にいた幹部と一緒に、大講堂の入り口に立ち、やって来た少年たち、一人ひとりに温かな声をかけた。
「よく来たね。もう大丈夫だよ」
「ゆっくり休んでください」
すると、笑顔と感謝の言葉が返ってきた。
「サンキュー・フォー・エア・カインドネス」(ご親切に感謝します)
なかには、覚えたての日本語で、あいさつを返す人もいた。
「ドウモ、アリガト」
「スミマセン」
伸一は、一緒に出迎えた幹部たちに言った。
「みんなも黙って立っていないで、どんどん声をかけようよ」
たとえ言葉はわからなくとも、声をかければ心は伝わる。それが励ましになって、勇気の火がともされる。大切なのは心の交流である。
大講堂のなかは、ボーイスカウトたちで、埋まっていった。
少年たちは、全身がびっしょりと雨に濡れていた。膝まで泥にまみれている人もいた。
また、靴を脱ぐ習慣がないため、土足のまま、上がってしまうメンバーもいた。
高等部員の通訳が、靴を脱ぎ、足を拭くように伝えるのを、幹部たちは汚れを心配しながら、ハラハラして見ていた。
49 開花(49)
大講堂は、意義ある建物であり、建立寄進した学会としても、大切に、大切に使ってきた。
それだけに、大講堂の廊下や床が汚れるのを見ると、幹部たちは、いたたまれぬ気持ちでいたのである。
山本伸一は言った。
「大変な思いでいる人たちに救援の手を差し伸べることが、仏法の精神なんだ。今は、床や畳の心配をするのではなく、この人たちを守り抜くことだ。
後で、きれいに掃除をすればいいし、もし、畳がだめになったら、替えればいいじゃないか」
自分たちの心を見抜いたかのような伸一の言葉であった。幹部たちは、仏法の人間主義の奥深さを知った思いがした。
伸一は言葉をついだ。
「雨でびしょ濡れになるというのは、切ないものなんだよ。
私は、少年時代、新聞配達をしていたが、途中から雨に降られることが一番いやだった。新聞が濡れないように、上着やシャツで覆いながら、自分は、ずぶ濡れになって配ったこともある。
そのやるせない気持ちは、経験した者でなければわからないだろうな。
あの少年たちは、異国の地でキャンプし、嵐にあった。泣き出したいほど不安な気持ちだったにちがいない。
そのうえ、風邪でもひいたりしたら、かわいそうじゃないか。だから、せめて、私たちの手で、安全な一夜を保障し、楽しい思い出をつくって、帰ってもらおうよ」
伸一の心を知り、幹部は、自分たちの考え方を反省した。
午後八時ごろになると、三陣、四陣と、ボーイスカウトの乗ったバスが、続々と到着し、大講堂前は入場を待つ人で埋まった。
伸一の指示が飛んだ。
「ここだと雨があたるから、後から来るメンバーは、一時、大客殿のピロティで待機してもらうようにしよう。
また、鼓笛隊や音楽隊には、どんどん歓迎演奏をやってもらおう。楽しく、明るい雰囲気をつくることが大事だよ」
皆に寂しい思いをさせまいとする伸一の、強い一念と責任感が、最も適切で臨機応変な対応となっていったのである。
演奏を聴いた少年たちは、大喜びだった。口笛や指笛を鳴らすメンバーもいた。
50 開花(50)
避難してきたボーイスカウトたちには、通訳の高等部員らの手で、パンやオニギリ、スイカ、ジュース、牛乳、菓子等が配られていった。
オニギリは、総本山の売店の人たちなどが、炊き出しをしてくれたものであった。
また、そのほかの食料品は、輸送班の青年たちが、雨のなか、総本山の売店をはじめ、富士宮市街にまで行って調達してきたものだ。
高等部員は、忙しく立ち働いた。皆、ことのほか生き生きとしていた。
充実感も、歓喜も、瞬間瞬間、わが使命を見いだし、真剣に行動するなかにこそ、みなものだ。
ボーイスカウトの少年たちのなかには、まだ寒そうな表情をしている人もいた。山本伸一は、それを見ると、輸送班の青年に、大量の新聞紙を用意してもらった。
そして、通訳の高等部員に言った。
「寒い人は、新聞紙を衣服の下に入れると暖かくなるよ。
毛布がそろうまでの間、そうするように教えてあげてください」
高等部員とボーイスカウトの少年たちは、ほとんどが同世代であった。パンなどを配っているうちに、すぐに打ち解け合っていった。
「友だちに交わるのは一種の藝術です」とは、中国を代表する女性作家の謝冰心の言葉だが、高等部員の真心は、容易に対話の扉を開いた。
一段落すると、あちこちで、英語での談笑の輪が広がった。自己紹介にはじまり、学校生活や町の様子などを尋ね合い、語らいが弾んだ。
「日本の食べ物では何が好きですか」と聞かれたアフリカの高校生は、即座に答えた。
「ここで食べたライスボール(オニギリ)が好きです。おいしい」
指相撲を教えたり、新聞紙で折り紙をしてみせる高等部員もいた。
アメリカから来た少年は、頬を紅潮させて語っていた。
「昨夜は、雨でテントが水浸しになり、どうなってしまうかと思ったんです。不安で仕方がありませんでした。
でも、もう安心です。みんなと友だちになれたし、いい思い出ができました。ここに来ることができて本当によかった。感謝しています」
51 開花(51)
やがて、世界ジャンボリーの役員たちが、指揮本部にそろった。
山本伸一は、歓迎の言葉を述べた。
「誇り高きボーイスカウトの皆さん方が、安心して休息し、世界ジャンボリーが大成功に終わりますよう心から念願し、歓迎いたします。
どうか、お困りのことがありましたら、遠慮なく言っていただければと思います。また、ゆっくりとお休みください」
伸一の歓迎に応えて、ボーイスカウト日本連盟の役員が、感無量の面持ちで叫ぶように言った。
「私どもは、こうした機会を得たことに、心から感謝しようではありませんか!
世界ジャンボリーの成功と、心からの感謝を込めて″弥栄!″」
その発声に、各国のメンバーも続いた。
「イヤサカ!」
「弥栄」とは、ともどもに、ますます栄えていこうとの意味である。
外は、雨が降り続いていた。だが、ここは、歓談の花が咲き、和やかな友情の曲に包まれた。
午後九時を過ぎても、十時になっても、バスは次々と到着した。
そのたびに伸一は、大講堂の入り口に立って、ボーイスカウトのメンバーを温かく出迎えた。
人間の真実は行為にこそ表れる。人びとのために、今、何をし、今日、何をなすかである。
その姿を見ていた、ある国のチーフが、伸一に感謝を述べに来た。
「私たちの仲間には、砂漠の国から来た者もいます。生まれて初めて、台風を体験した少年もいます。恐ろしさで、胸がいっぱいだったと思います。
それだけに、これほど深い真心に包まれ、一夜を送れることは、生涯の思い出となるでしょう。ありがとうございます」
伸一は答えた。
「人間として当然のことをしているだけです。次代を担う少年を守り、育むことは、大人たちの義務です。
そこには、国境も、宗教の違いも、民族の違いもありません」
チーフの目が潤んだ。
この日、約六千人のスカウトの受け入れを終えて、伸一が大講堂から雪山坊に戻ったのは、午後十一時半過ぎであった。
夕方から、約六時間、時に激しい風雨にさらされながら、彼は陣頭指揮をとり続けたのである。
52 開花(52)
翌朝、ボーイスカウトの少年たちは、目覚めると、大講堂の廊下を駆け回るなど、すっかり元気になっていた。皆、熟睡し、体力を回復したようであった。
メンバーにとって、大広間で国の別なく、一緒に一夜を過ごしたことは、忘れられない思い出となったようだ。
お互いを身近に感じ、まさに、ジャンボリーのテーマである、「相互理解」の深まる一夜となったのである。
メンバーは、この日、大石寺から、御殿場の自衛隊駐屯地などへ移動することになっていた。
午前十時過ぎから、バスの乗車が始まった。
まだ、雨は降り続いていたが、ゆっくり休んだ少年たちの表情は明るかった。
前夜、雨に打たれた山本伸一は、風邪をひいたらしく、熱があり、体が重たかった。咳も出た。
しかし、彼は、勇んで見送りに向かった。
皆、二十一世紀を担いゆく少年たちである。世界の宝である。その未来に、励ましの光を送りたかったのである。
この日は、三日間の夏季講習会を終えた高等部員も、下山する日であった。それぞれのバスに乗るため、高等部員とボーイスカウトは、並んで道を歩いた。
ボーイスカウトのメンバーに傘を差しかけたり、荷物を持ってあげる高等部員もいた。
バス乗り場の前では、あちこちで、「シー・ユー・アゲイン」(また会いましょう)と言って、固い握手を交わし合い、ニッコリと頷き合う姿があった。
そこには、若き魂の共鳴があり、美しき触れ合いのドラマがあった。
それは、国境を超えた″友情の名画″を思わせた。
伸一は、前夜、受け入れの慌ただしさのなかではあったが、集められるかぎりの花束を集めるように、青年部の幹部に頼んでいた。
人を思う強き一念は、細やかな配慮となって表れるものだ。
バス乗り場で彼は、その花束を、一台一台、車窓からメンバーに手渡していった。
「お元気で、また、日本にいらしてください」
「アリガト……」
頬を紅潮させて少年が答えた。
53 開花(53)
山本伸一は、バスのなかにいる、ボーイスカウトの少年たちに向かって語りかけた。
「今回、嵐に遭遇したことは、大変だったかもしれない。でも、それは忘れ得ぬ、生涯の思い出になります。
人生も一緒です。皆さんのこれからの人生には辛いこと、苦しいこともたくさんあるでしょう。
でも、それを乗り越えた時には、最高の思い出ができます。最も光り輝く体験がつくられ、人生の財産になります。
ゆえに、将来、何があっても、苦難を恐れてはならない。敢然と立ち向かっていく、皆さんであってください」
伸一は、高等部員に語りかけている時と、全く同じであった。彼には、相手が学会員であるかないかなど、問題ではなかった。
伸一は、眼前にいる、未来に生きる少年たちを、ただただ、全精魂を注いで励まそうとしていたのである。
英語のできる青年部の幹部が、彼の言葉を通訳した。皆、瞳を輝かせ、大きく頷いていた。
伸一は、バス乗り場でメンバーを送り出すと、大講堂の指揮本部に向かった。
ここでは全体の出発状況を確認したあと、大講堂の周辺にいたボーイスカウトと言葉を交わした。
中米のホンジュラスから来たメンバーがいることを知ると、語らいのひと時をもち、一緒に記念撮影をした。
また、イギリス隊のメンバーを見ると、彼は言った。
「昨日、皆さんの勇気ある行動についてお聞きし、感銘いたしました」
――イギリス隊は、自分たちのテントは水浸しになりながらも、ほかの国のメンバーを先に避難させ、最後の最後まで、皆の安全のために奮闘した。その姿が、皆に勇気を与えたというのだ。
臆病者の溜め息は、希望を奪う。しかし、一人の勇気ある行動は、万人を勇者へと変える。
伸一は、賞讃を惜しまなかった。
「皆さんには、ボーイスカウト発祥の地の誇りがあります。誇りは勇気の母です。人間を支える力です。
将来、何があったとしても、私はイギリス隊だと、胸を張って生きてください。 イギリス隊、万歳!」
54 開花(54)
山本伸一は、この日も陣頭指揮をとり続け、午後三時前、再びバス乗り場にやって来た。最終バスに乗るボーイスカウトを見送るためである。
音楽隊、鼓笛隊の奏でる「蛍の光」の調べが響き、見送りのメンバーの歌声がこだましていた。
「サヨウナラ!」
「アリガトウ!」
ボーイスカウトたちはバスの窓をいっぱいに開け、口々に感謝の言葉を語りながら、大きく手を振っていた。
ここでの一夜は、国境や民族、宗教を超えて、相互理解を深め合った、もう一つの「ジャンボリー」となったのである。
アインシュタインは、「信頼は個人の結びつきを培うことによってのみ、つくり出されうる」と分析している。
ボーイスカウト日本連盟の世話役の一人が、伸一に駆け寄って来て、感慨深げに語った。
「私どもは、外国の人と理解を深めることはもちろんですが、その前にもっともっと、日本のなかで、理解すべきものがあったことを知りました。それは、創価学会についてです。
このたび、私たちは、暴風雨という大変な事態のなかで、皆様方の真心と人間性に触れることができました。
この温かい友情に包まれた一夜に、山本会長のご好意を身に染みて感じた次第です。私たちは、この友情の灯を、消してはならないと思います」
伸一は言った。
「全く同感です。友情は人間性の証です。友情を広げ、人間と人間を結び合い、人類の幸福と平和の連帯をつくるのが、私どもの目的です」
世話役の壮年は、大きく頷いた。二人は、固い固い、握手を交わした。
この救援活動に、学会員は、慈悲の光を万人に注ぐ、社会貢献の時代の到来を強く感じた。
後日、ボーイスカウト日本連盟の理事長は、学会本部を訪問して、山本伸一に感謝状と楯を贈っている。
また、伸一は、後年、世界を旅するなかで、「あの時、お世話になりました」という青年たちと、思いがけぬ嬉しい再会を重ねることとなる。
社会を離れて仏法はない。ゆえに、わが地域、わが職場に、君の手で、人間主義の花を断じて咲かせゆくのだ。