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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「創価大学」 創価大学

小説「新・人間革命」

前後
98  創価大学(98)
 学生歌の大合唱で、卒業式は終わった。
 山本伸一は、舞台のソデから退場せず、フロアに降りた。
 そして、最前列に並んでいた卒業生に手を差し出し、一人ひとりに声をかけながら、固い握手を交わした。
 「お元気で!」
 「何があっても負けないで!」
 「君たちのことは、生涯、忘れません」
 「創大生の誇りを忘れずに!」
 「はい!」と答える卒業生の手に、力がこもった。目に涙を浮かべ、伸一の手を、両手で握り締める青年もいた。
 ″大学の真価は卒業生で決まる。君たちの前途には、烈風の日々もあろう。暗雲に包まれる時もあるだろう。しかし、創大生なら断じて勝て!″
 伸一は心で、そう呼びかけながら、皆を抱き締める思いで、握手を交わしていった。
 卒業生のなかに入り、励ましを送る創立者の姿に、在校生も、父母も泣いた。
 そこには師弟の魂の触れ合いがあった。
 それは、永遠の誓いが刻印された、栄光への旅立ちの集いとなった。
 一期生が卒業した、この一九七五年(昭和五十年)の春、創価大学は、中国政府の派遣留学生を受け入れている。
 ″人類の平和を守るフォートレス(要塞)″として、創価大学の国際交流が、本格的に開始されたのである。
 七二年(同四十七年)九月、日中国交が樹立したが、まだ、中国の文化大革命は終息せず、日本の各大学は中国の留学生を、正式に受け入れようとはしなかった。
 日本語や日本事情を勉強させるために、日本の大学で学ばせたいと考える中国政府にとって、頭の痛い問題であった。中国大使館員から、その話を聞いた伸一は、自ら保証人となって、中国人留学生を創価大学に受け入れようと思った。それが、日本留学の思い出を伸一に語った周恩来総理への恩返しにもなると、考えたのである。
 大学も、検討の結果、伸一の考えに賛同した。そして、創価大学は、中国からの六人の留学生を迎えたのだ。日本の大学による正式な中国の留学生の受け入れは、戦後初めてであった。
 この一九七五年(昭和五十年)五月に、山本伸一はモスクワ大学を訪問し、「東西文化交流の新しい道」と題して講演を行った。
 また、その際、同大学の名誉博士の称号を贈られている。そして、この時、創価大学とモスクワ大学の間に交流協定が結ばれたのである。
 まだ、時代は東西冷戦の真っ只中であり、多くの日本人は、ソ連に脅威を感じ、そのイメージは決して好ましいものではなかった。
 だからこそ伸一は、次代のために教育の交流を推進し、不信を信頼へ、反目を友情に変えようと、懸命に努力していたのである。
 創価大学との学術・教育交流は、その後、世界各地に広がっていった。
 その数は現在までに、四十一カ国・地域八十九大学に及んでいる。
 七六年(同五十一年)春、創価大学は留学生のために、別科日本語研修課程を開設した。
 別科長に就任したのは理学博士で教授の若狭正光であった。十一年間、アメリカとカナダで研究を続け、カナダのマニトバ大学では准教授を務めてきた数学者である。
 創価大学には、留学生を皆が支援し、友情を結ぼうとの機運がみなぎっていた。
 最初の中国からの留学生のなかには、日本の生活になじめず、体調を崩す人もいた。
 話し合いの末に、気分転換になればと、創大生の有志と留学生が、一緒に農作業を行うことにした。その農場の開園式には、伸一も出席して、「日中友誼農場」と命名している。
 伸一は、かつて日本に留学し、仙台医学専門学校に学んだ中国の大文学者・魯迅と、指導教官の藤野厳九郎との交流を思い描いていた。
 二人の間には、民族、国家の壁を超えた、人間と人間の温かい心の触れ合いがあった。
 伸一は、創大の教員や学生と留学生の間にも、そうした友情が育まれ、友好の大樹に育ちゆくことを強く願っていた。
 別科開設以来、別科に学んだ留学生は約千七百人に上っている。そして、伸一の願い通り、国境を超えた友情の輪が、幾重にも、結ばれていったのである。この結合こそ、二十一世紀の人間主義の連帯の要と光りゆくであろう。
99  創価大学(99)
 創価大学からも多くの学生が、交換留学生として世界の各大学に留学していった。
 その創大生たちは、自分たちがパイオニアなのだとの自覚で、猛勉強を重ねた。
 そして、そこで培った語学力などを生かし、平和の懸け橋となっていった人も少なくない。
 たとえば、モスクワ大学への最初の交換留学生となった斎木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。
 そこにも、山本伸一の励ましがあった。
 彼は、斎木に対して、大学二年の時から、育成を心がけてきた。
 有志がロシア語研究会をつくり、語学の習得に励んでいることを聞いた彼は、ソ連の要人と創価大学で会見した際に、ロシア語研究会の二人の学生を同席させた。その一人が斎木であった。
 伸一は、彼女にも通訳をするように言った。斎木は、懸命に通訳しようとしたが、最初のあいさつぐらいしか、うまく伝えられなかった。
 彼は、斎木が生きた語学を身につけるとともに、ロシア語を学ぶうえで、挑戦の目標をつくってほしかったのである。
 これを契機に、斎木の猛勉強が始まり、モスクワ大学への交換留学の道が開かれると、その第一号となった。
 厳冬のモスクワは零下二〇度を下回った。
 ″私はパイオニアなんだ。自分の評価が創価大学への評価になる″と思うと、いやがうえにも闘志が燃え上がった。ひたぶるに勉学に励む毎日であった。
 彼女は帰国し、卒業したあと、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。
 伸一は、親身になって彼女の相談にのり、さまざまな応援をした。
 結婚した二人は、ソ連のカザフ共和国に渡り、やがて日本で暮らすことになった。
 彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していった。
 だが、数年後、予期せぬ悲しみが彼女を襲った。突然、夫が他界したのである。絶望の底に叩き落とされた。
 もはや、生きる気力さえなかった。日本で葬儀を終えた彼女は、夫の故郷にも遺骨を埋葬するため、カザフ共和国に向かった。
 斉木いく子のカザフ共和国への旅は、二人の幼子を連れての、長く悲しい道のりであった。
 夫の遺骨は、四歳になる長男が、リュックサックに入れて背負った。
 モスクワから、さらに飛行機に乗り継いで数時間、夫の実家に着いた時には、身も心も疲れ果てていた。
 そこに、創立者の山本伸一から、電報が届いたのである。
 「人生には、いろいろな出来事があります。その一つ一つが深い意味をもっています。だから、あなたのこれからの人生を、堂々と歩いていきなさい」
 文字が涙で霞んだ。絶望の闇に閉ざされていた彼女の心に、一筋の光が走った。
 ″そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。子どもたちもいる。負けるわけにはいかない……″
 深い苦悩の淵から立ち上がった人のみが、苦悩する人に勇気を与えることができる。また、苦しみが人間を深め、輝かせていくのだ。
 斎木は、苦しむ人のため、平和のために役に立ちたいと、一段と強く心に決めた。そして、ロシア語の力を磨き抜き、日本屈指のロシア語通訳となっていったのである。
 伸一は、創立者として生涯にわたって、創大生を見守り、励まし続ける決意を固めていた。
 卒業後、皆がいかなる人生を歩んでいくかに、教育の価値は現れる。それを見続けていくことこそ、自分の責務であると考えていたのだ。
 創大生には海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。
 一期生の経済学部からは、矢吹好成、高山一雄、船馬勝久の三人が、アメリカの大学院で博士号を取得し、後年、母校の創価大学で教鞭をとることになる。
 さらに矢吹は、アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンバスがオープンすると、初代の学長となるのである。
 このほかにも、創大の教員になった人は少なくない。また、国内はもとより、海外の他大学で、教員として活躍する卒業生もいる。
 皆、創価大学に学んだことを無上の誇りとし、最高の誉れとして、人類の平和を担う、次代のりーダーの育成に、懸命に取り組んでいる。
 創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。
 ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問し、賛辞を寄せている。
 創価大学は、年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。
 一九七五年(昭和五十年)には、一期生の卒業を受けて、大学院を開設したのをはじめ、翌年には経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。
 この年には、開学以来の念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の場が開かれたのである。
 八五年(同六十年)には、人間主義の哲学を根底にした、社会に有為な女性リーダーの育成をめざして、創価女子短期大学が開学した。
 八八年(同六十三年)には文学部に人文学科、九〇年(平成二年)に日本語日本文学科と外国語学科(中国語・ロシア語)を開設。九一年(同三年)には工学部がスタート。現在、六学部十三学科となっている。
 また、中央図書館をはじめ、記念講堂、本部棟などの施設も、相次ぎ完成していった。
 そして、いよいよ二〇〇四年(同十六年)には司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学の運びとなった。
 一方、アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンしている。 その後、アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、九四年(平成六年)には大学院を開設。
 さらに二〇〇一年(同十三年)には、オレンジ郡キャンバスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、人類の平和を創造する世界市民の育成に船出したのである。
 教育の道は、永遠なる開拓である。
 この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を、絶対に休めてはならない。
 不幸の克服こそ、教育の真実の目的であり、使命であるからだ。
 人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。
 山本伸一は、激動、混迷する世界の未来を見すえながら、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。
 また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕しゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。
 それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。
 創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくか――それこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。
 教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。
 伸一は、彼の″命″ともいうべき創大生に、限りない期待と、全幅の信頼を寄せていた。
 ″私には、創大生がいる。もしも、戦い、倒れようとも、創大生がすべてを受け継ぎ、発展させていってくれる″
 そう思うと、勇気がわいた。力があふれた。どんな試練にも耐えられた。どんな苦しみも、莞爾として乗り越えることができた。
 彼は、創大生の成長を祈り念じ、三十年、五十年、百年先を思い描きながら、走りに走った。
 大学開学以来、既に三十余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、五万数千の創大生が社会に巣立っていった。
 教育界にも四千人近くが羽ばたき、鳳雛の育成に全魂を傾けている。
 各企業で重責を担う友も多い。
 法曹界や政界で活躍するメンバーもいる。
 また、世界各国で、社会に貢献する創大出身者の凛々しき姿がある。
 伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は、今、しっかと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。
 ″伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ! 永遠なれ、わが創価大学よ!
 私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!
 教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ″
  創大生
    生き抜け勝ち抜け
      この一生

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