Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「大河」 大河

小説「新・人間革命」

前後
50  大河(50)
 小沢は、本田に、通信員の手伝いを通して、再起のきっかけをつかんでほしかった。また、本田なら、通信員に最適ではないかと思ったのである。
 本田は、やがて、薬剤師の資格を生かし、薬局を開くことができた。彼女は、多くの同志の取材にあたるなかで、真実の人間の輝きに触れる思いがした。
 日蓮大聖人ゆかりの佐渡で、広宣流布に生きることを無上の誇りとし、黙々と弘教に励む婦人。創価の旗を掲げ、旧習と戦い、信頼の輪を村中に広げた壮年……。
 ″私も、佐渡の広宣流布のために生きたい″と願うようになっていた。
 体を悪くして故郷に帰ってきたのも、そのためであったと、思えてならなかった。
 本田は、正式に通信員となり、大きな力を発揮していった。
 緊急な取材もあった。彼女は、佐渡の小木港のすぐ近くに住んでいたが、この港から出る船は一日一往復であった。体験を取材して、原稿を書き上げ、港に急いだが、船は桟橋を離れ始めていたこともあった。
 「これ、お願いします」
 船に向かって、原稿とフィルムの入った封筒を思いっ切り投げた。顔なじみの船員が受け止めてくれた。
 島内の交通の便も、決してよいとはいえなかった。取材をしていて、最終バスに乗り遅れ、女子部員の家に泊めてもらったこともあった。
 彼女が最も心を砕いたのは、正確な記事を書くことであった。特に名前や日時などの確認には、細心の注意を払った。新聞の生命は正確さであり、一字一句でも間違いがあれば、営々として築き上げてきた聖教新聞の信用を、自分が失墜させてしまうことになるからだ。
 苦心して送った原稿や写真が、使ってもらえないこともある。しかし、本田は、その時こそが、勝負だと思った。
 落胆して情熱を失うのか。今度こそ、と闘魂を燃やすのか――その積み重ねが、自身の生き方となり、それが、人生の幸・不幸を決定づけていくことになる。
 彼女にとって、通信員の活動は、常に「挑戦」の心を鍛え、培うための訓練の場であった。
 そうした場をもてたことに、本田は感謝していた。
51  大河(51)
 彼女は、自分の記事や写真が紙面を飾るのを見ると、どんな苦労も吹き飛んだ。佐渡の同志の活動や体験が皆の目に触れるのだと思うと、通信員の使命を果たした喜びに、胸が熱くなるのであった。
 そして、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか、持病の貧血も治っていたのである。
 彼女は、女子部にあっても、支部の中心者として活躍していった。
 女子部の幹部としての活動と通信員としての活動を両立させる苦心は、並大抵のものではなかった。しかし、一歩も退かなかった。
 山本伸一は、そうした新潟の通信員たちの活躍を耳にし、この一九七〇年(昭和四十五年)の九月、聖教新聞社の新社屋落成を記念し、代表して本田に書籍を贈った。
 そこには、次のような句が認められていた。
 「佐渡ケ島 わするることなし 師弟不二」
 伸一は、通信員の姿のなかに、広宣流布という平和社会を建設する、言論の闘士の模範を見ていたのである。だから、全国各地の通信員の活躍に最も期待を寄せ、その成長のために、力の限り、励ましを送り続けてきたのだ。
 広島の通信員に、子どもの時に原爆の惨禍に巻き込まれた女性がいた。原爆症がいつ発症するかもしれないという恐怖のなか、十七歳で信心を始め、その後、通信員となった。
 真の平和を建設する言論戦を展開しようと、通信員の活動を続ける、この女子部員のことを知った伸一は、書籍に「大思想は 原爆を恐れじ」と認めて贈っている。 
 新社屋での通信員大会は、喜びのうちに幕を閉じた。その報告を聞いた伸一は、自らに言い聞かせていた。
 ″私も、皆の先頭に立って戦おう。広宣流布という言論戦の砦たる聖教新聞に、生涯、一通信員、一記者のつもりで、原稿を書いて書いて、書きまくろう。さあ、戦闘開始だ!″
 夕刻、伸一は、本部周辺を車で回りながら、そびえ立つ聖教新聞社の新社屋を見上げた。
 その屋上には、新聞社の社旗が、夕焼けに染まった空を背景に、さっそうと翻っていた。

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