Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「使命」 使命

小説「新・人間革命」

前後
50  使命(50)
 礒村は、次男の闘病と死から、生命の不可思議さを垣間見た思いがした。彼は、懸命に仏法の生命の法理を学び始めた。生命が三世永遠であることや、十界互具、色心不二、依正不二などの原理を学ぶにつれて、その深遠さに驚嘆した。
 そして、この仏法を、自己の思想的な基盤として、新たな文学を創造していきたいとの思いをいだくようになっていったのである。
 関西の文芸部長になった池中義介は、かつて青果店を営んでいた。その店先で次々と書き上げ、応募した懸賞小説が、相次いで入選し、作家としての道を歩み始めた人物であった。
 神戸のラジオ局が開局すると、ラジオドラマを書き、それが八年間もの長寿番組となった。さらに、テレビドラマの執筆、スポーツ紙への小説の連載等、寝る間も惜しんで書きに書いた。
 彼は、自分の作品に、物足りなさを感じることもあったが、熟慮する余裕はなかった。ともかく、書き続けていなければ捨てられてしまうという不安が、頭から離れなかった。
 だが、四十代半ば、働き盛りの年代で、急性結核性肋膜炎で倒れた。
 それが契機となって、学会に入った。一九六二年(昭和三十七年)一月のことである。
 やがて病は癒えたが、池中は学会員と接するなかで、自分のこれまでの生き方に、疑問を感じるようになった。
 ″なんで学会員は、人のために、あれほど一生懸命になれるんやろう。苦しんどる人がいると、一緒に悩み、励まし、手を取り合って喜び合う。打算も、利害もない。きれいごとを並べ立てたりはせえへんが、なりふり構わぬ誠実の行動がある。地に足が着いた善意を見る思いがする。
 それに対して俺は、何をしてきたんやろ。なんのために働いてきたんやろか。結局は、知名度や金といった、名聞名利ばかり求めて書いていたんやないか。その揚げ句の果てが病気や。こんな自分から脱皮せなあかん″
 彼は、「虚名」を追い求めるなかで、本当の自分を見失っていたことを痛感するのであった。
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 池中を、さらに驚嘆させたのは、経済苦や病苦をかかえた学会員が、喜びにあふれて、学会活動に励んでいる姿であった。
 それは、彼の価値観、人生観を、根底から覆すものでもあった。
 ″俺の幸・不幸のとらえ方は、あまりにも表層的で観念的やった。結局は、人間というものが、わかってへんかったんやないか。これでは、本当に人を感動させる作品なんか、書けるわけあらへん″
 以来、売れっ子作家はペンが持てなくなってしまった。いや、しばらくは、ペンを持つまいと思った。彼は、学会の世界で一からやり直し、自分の生命を磨き、境涯を高めようと決意していた。真実の人間を見つめる「眼」を開こうと思った。
 作品を書かなくなった作家の生活は、すぐに困窮した。貴重な蔵書を売り、保険も解約し、生活をつないだ。しかし、彼は燃えていた。懸命に唱題し、書斎から飛び出して、学会活動に挑んだ。
 彼は、倒産や難病を乗り越えて、人生の凱歌を高らかに歌う、たくさんの同志と語り合った。何人もの子どもを育てながら仕事をこなす婦人や、海外雄飛を胸に描いて、町工場で働く青年とも対話を重ねた。
 池中は、学会活動を通して、人間の輝き、人間の強さを知った。人間がもつ、無限の可能性を実感した。彼の心の世界は、大きく変わっていった。生命の底から、創造の息吹がみなぎり始めていた。
 文芸部が結成され、彼が第一期生の任命を受けたのは、ちょうど、そのころであった。
 池中は、再び執筆を決意し、優れた人間洞察の歴史小説を、次々と発表していくことになる。まさに、「妙とは蘇生の義なり」との仰せ通りの復活であった。
 こうしたメンバーが中核となって後輩の育成にあたり、やがて、文芸部からは、日本を代表する作家や、各文学賞の受賞者、そしてまた、正義の言論の闘士など、多くの逸材が育っていくのである。
 絢爛たる人間文化の創造――ここに創価学会の尊き大使命がある。

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