Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「常勝」 常勝

小説「新・人間革命」

前後
51  常勝(51)
 山本伸一は、さらにベトナムをはじめとするインドシナに対して、今後、アメリカは、どのような方向をめざすべきかを述べた。
 その一つは、ベトナムの新しい建設のエネルギーを蘇らせるために、アメリカがリーダーシップをとり、全世界の国々、科学者、教育者、医師等々の、友愛と善意の精神を結集する国際的な機構を設置するというものであった。
 そして、ベトナムの未来のために、「ベトナム復興国際委員会」「教育国際委員会」「医療と保健衛生国際協力委員会」等の機構の設置案を示した。
 この委員会の基本的な性格については、次のように訴えている。
 一、ヒューマニズムと友愛の精神に基づく。
 二、恒久平和のために、人間の尊厳を踏みにじるいっさいの暴力や人間抑圧の廃絶をめざす。
 三、一部の国家に従属したかたちではなく、国連機構の一環とする。
 四、軍事上の目的にいっさい関係しないで、ベトナム民衆の生活向上、教育普及、保健衛生の充実をめざす。
 五、あくまで民族自決の原則を尊重しつつ、当事国を側面から支援する。
 また、同じような紛争が起こり、第二、第三の″ベトナム″が生まれることを防ぐために、「アジアの平和のための国際委員会」の設置を提案していった。
 「委員会のメンバーには、東南アジア諸国、インド、日本、韓国・北朝鮮、米、中、ソの代表が加わり、責任をもってアジアの紛争を処理していく。
 その話し合いには、紛争当事国、あるいは紛争を起こしている勢力の代表が参加し、平和的に問題を解決していく。この委員会は、そのための平和機構であります。
 なお、同委員会のセンターの候補地の一つとして、私は、沖縄がどうかとも考えております」
 沖縄は、最も戦争の悲惨さを味わい、戦後もまた、基地の島となってきた。
 さらに、アメリカ、中国、東南アジア諸国と、歴史的に極めて深い関係をもっている。
 伸一は、その沖縄には、アジアの恒久平和の発信地となりゆく使命があると、考えていたのである。
 結びに彼は、大統領の大英断を期待して、こう呼びかけた。
 「世界は一同に、あなたの″決断″と″実行″を、どれほどか待っていることでしょうか! 心ある人びとは、どれほど深く、あなたの人間性を信じていることでありましょうか!」
52  常勝(52)
 山本伸一のニクソン大統領への書簡は、日本語で四百字詰め原稿用紙にして四十数枚、英文タイプにして三十八枚に及んだ。
 文面には、ベトナムの、そして、アメリカの人びとを思い、平和を願う、伸一の熱烈な心情がみなぎっていた。
 それは、「提言の書」であると同時に、「平和への誓願の書」であり、また、「諫言の書」でもあった。
 この書簡は、新しい年に希望の旭日が昇りゆくことを念じて、一九七三年一月一日付で認められた。
 そして、人を介して大統領補佐官のキッシンジャーに託し、ニクソン大統領に届けられたのである。
 当時、キッシンジャーはニクソン政権の国家安全保障問題担当の特別補佐官であり、六九年から、和平交渉の北ベトナム代表団のレ・ドク・ト特別顧問との間で、ベトナム和平への秘密会談を行っていた。
 なお、書簡を送った二年後の七五年一月、キッシンジャーと伸一は、初めての出会いを果たす。
 さらに、二人は親交を深め、やがて、対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』を編むことになるのである。
 伸一の書簡を、ニクソン大統領が、どのような思いで読み、それがいかなる影響を与えたかは、定かではない。
 ともあれ、それから間もない一月二十三日、キッシンジャーとレ・ドク・トが、「ベトナムにおける戦争の終結と平和回復に関する協定」(ベトナム和平協定、パリ協定)に仮調印している。
 そして、二十七日には、南北両ベトナム、南ベトナム共和臨時革命政府(六九年六月樹立)の三外相、アメリカの国務長官がこれに調印。この協定が正式に成立し、翌日、停戦となったのである。
 この協定では、調印後、六十日以内のアメリカ軍の撤退や捕虜の相互釈放などが決められていた。
 これで、ベトナムの人びととアメリカとの戦いに、終止符が打たれたのだ。
 しかし、まだ、ベトナムに平和は訪れなかった。
 南ベトナム政府は、南におけるただ一つの合法的な政府であることを主張し、南ベトナム共和臨時革命政府との間で戦いが始まったのである。
 アメリカ軍が手を引いたあとでは、南ベトナム政府軍には、もはや奮戦する力はなかった。
 ″解放軍″は次々と各地を制圧し、首都サイゴンに進攻。七五年四月三十日、南ベトナムは無条件降伏するのである。
53  常勝(53)
 北爆から十年、フランスと戦った第一次インドシナ戦争の勃発からは実に足かけ三十年――戦火の絶えなかったベトナムに、遂に平和が訪れたのだ。
 翌一九七六年七月、ベトナムは悲願の統一を成し遂げ、ベトナム社会主義共和国が誕生する。
 だが、戦いの混乱のなかで、日本人メンバーの多くは帰国を余儀なくされ、現地のメンバーも散り散りになってしまった。
 サイゴン支部の支部長、婦人部長の深瀬夫妻は、危険を覚悟で、可能な限り、ベトナムにとどまろうと決意していた。
 ″もし、同志が来たら励まさなければ″と考えてのことである。
 戦闘が始まると、三人の子どもとともに、地下室に身を潜めた。
 周囲の家が焼かれることも珍しくなかった。自分の家の門柱にも、弾痕が刻まれた。家の前に、手がちぎれた、血まみれの遺体が転がっていたこともあった。
 それでも、サイゴンから動こうとはしなかった。
 しかし、日本大使館から退避勧告があり、七三年一月、やむなく深瀬一家は、ベトナムを離れることになったのである。
 山本伸一は、和平が成立したあとのベトナムの行方にも、心を砕き続けた。
 ベトナム難民が急増した時には、青年部によるベトナム難民の救援募金を支援した。
 また、九〇年には、学会は、「戦争と平和――ベトナム戦争の軌跡展」を全国各地で開催し、平和へのアピールを行った。
 さらに、九四年夏には、ハノイ、ホーチミン(旧サイゴン)両都市で「世界の少年少女絵画展」を開催。
 これには、パリ和平会議に南ベトナム共和臨時革命政府の代表で参加していた、女性革命闘士のグエン・ティ・ビン副大統領も鑑賞に訪れたのである。
 米国防総省は、この戦争で米軍の戦死者・事故死者は約六万人、戦費は約千三百九十億ドルと発表した。
 また、ベトナムの死者は北ベトナム・解放戦線軍は約百万人、南ベトナム政府軍が約二十四万人、さらに民間人の犠牲者も約五十万人に上ったといわれる。
 いったい、なんのための戦争であったのか。
 いかに大義名分をつけようが、いかに「正義」を装っても、戦争は、人間の魔性の心がもたらした、最大の蛮行であり、最大の愚行以外の何ものでもない。
 創価学会は、すべての戦争に反対する。この世から一切の戦争をなくすために、我らは戦い続ける。

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