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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「清流」 清流

小説「新・人間革命」

前後
46  清流(46)
 学会を叩きつぶすためには、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用するというのが、民衆の力の台頭を阻止しようとする勢力のやり方である。
 そこに、広宣流布の戦いの熾烈さもある。
 ところで、不祥事を起こし、学会に迷惑をかけて、退転していった人間は、必ずといってよいほど、学会を逆恨みし、攻撃の牙を剥くものである。
 それは、一つには、学会を利用し、果たそうとした野望が実現できなかったことから、学会を憎悪し、嫉妬をいだくためといえる。
 また、不祥事を起こした、脱落者、敗北者の″負い目″″劣等感″を、拭い去ろうとする心理の表れともいえる。そのためには、自己を正当化する以外にないからだ。
 そこで、学会や山本伸一を「巨悪」に仕立て上げ、自分を、その被害者、犠牲者として、「悪」と戦う「正義」を演じようとするのである。
 この本末転倒の心の在り方を、「悪鬼入其身」というのである。
 しかし、そうした輩の中傷は、なぜか、自分の犯した悪事と同じことを、学会が犯していると吹聴するケースが多い。
 たとえば、金銭問題や異性問題を起こして退転していった者の手にかかると、学会は、そうした問題の温床であり、伸一は、その元凶ということになる。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるが、人間の思考も、自分の境涯の投影であるからであろう。
 そして、退転者の流すスキャンダルを鵜呑みにする人もいれば、本質を見抜き、一笑に付す人もいる。
 この反応にも、その人の境涯、人格、人間観が端的に表れる。人間は、常に自分を基準にしてしか、他者や物事を推し量ることができないからである。
 ともあれ、ものに憑かれたように、憎悪を剥き出して、伸一と学会への中傷を重ねた沼山三重子であったが、その末路は、無残この上なかった。
 彼女は、なんと、晩年になると、かつて、ともに活動した学会員のところへ電話をしてきては愚痴をこぼし、学会に戻りたいと語るようになった。
 彼女からの電話を受けたメンバーは、一様に驚きと怒りを覚えた。
 ある婦人部員は、こう叫ぼうとした。
 「ふざけないでよ! 学会を裏切り、さんざん迷惑をかけておいて」
 しかし、言葉にはできなかった。三重子の声は、あまりにも苦しそうな、うめくような声であったからだ。哀れさが先に立ってしまったのである。
47  清流(47)
 ある時、沼山三重子は、かつての婦人部長である、清原かつを訪ねて来た。
 清原は、その変わり果てた姿に、息を飲んだ。
 体はやつれ、顔色は青黒く、生気は全くなかった。
 三重子が、弱々しい声で、喘ぐように語ったところでは、癌に侵され、しかも、転移してしまっているとのことであった。
 彼女は、深々と頭を垂れて言った。
 「学会にご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。もう一度、もう一度、学会員にしてください……」
 病に苦しみ、死を見すえた彼女は、学会に敵対し、仏法に違背した罪の深さに、気づかざるをえなかったのであろう。
 仏意仏勅の団体である創価学会の組織を撹乱し、反旗を翻した罪はあまりにも重く、限りなく深い。
 大聖人は「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む」と仰せである。
 かつて教学を学んだ彼女は、病苦のなかで、わが身の罪業の限りない深さに気づき、恐れおののき、地獄の苦にあえぎ続けていたにちがいない。しかも、その業苦は、生々世々にわたることであろう。
 清原は、哀れ極まりない沼山三重子の姿を目の当たりにすると、胸が締めつけられ、怒る気にもなれなかった。そして、あまりにも厳しい仏法の因果に慄然とした。
 清原は言った。
 「懺悔滅罪のお題目よ。ともかく、命ある限り、御本尊に、罪をお詫びし抜くしかないでしょ」
 しかし、ほどなく三重子は他界している。無残な末路といわざるをえない。
 人は騙せても、自分は騙せない。また、自分は騙せても、仏法の法理をごまかすことは絶対にできない。
 生命の因果の法則の審判は、どこまでも厳格であり、峻厳であることを知らねばならない。
 広宣流布の航海は、波瀾万丈である。疾風もある。怒涛もある。嵐もある。
 しかし、風を突き、波を砕き、ただひたすら、前へ、前へと、進み続ける以外にない。
 あの地にも、この地にも、苦悩の岸辺をさまよい、われらを待ちわびている、数多の友がいるからだ。
 山本伸一は、来る日も、来る日も、広布の舵を必死に操りながら、「本門の時代」への前進の指揮をとり続けていた。
 希望の帆を張り、勇気の汽笛を、高らかに轟かせながら。
 (この章終わり)

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