Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「操舵」 操舵

小説「新・人間革命」

前後
46  操舵(46)
 台湾で学会が解散させられると、台北(タイペイ)支部の主立った幹部たちは、警備総司令部に呼ばれ、今後、いっさい信仰活動は行わない旨の念書を書かされた。
 だが、これで嵐は過ぎ去ったわけではなかった。むしろ始まりであった。以来、警察は、一人ひとりに監視の目を光らせ、取り締まりを強化していった。
 突然、家に踏み込まれ、御本尊を持っていかれた人もいた。御書をはじめ、学会の出版物やバッジなども没収された。
 「信心をするなら牢獄にぶち込むぞ!」と、脅された人もいた。
 また、信心をしていることがわかると、会社では昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。
 個人の信仰の自由は認められていたが、解散後は、事実上、それさえも奪われたに等しかった。
 この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。
 名聞名利の心をいだいて信心をしていた者は、迫害を恐れて、次々と退転していったのである。
 しかし、台北支部長であった朱千尋(チュー・チェンシュン)をはじめとする真正の同志は、苦難を誉れとして、獅子となって立ち上がった。
 朱は、大手のセメント会社で課長を務める、未来を嘱望される人物であったが、彼が警察に監視されるようになると、会社の幹部は、信心をやめるように迫った。
 もとより、そんなことで、朱の決意は揺るがなかった。すると、彼は昇進の道を断たれただけでなく、会社での役職を外されてしまったのである。
 閑職に追いやられた朱は、帰宅時間も早くなり、休みもきちんと取ることができた。
 彼は、空いた時間を利用し、御書の中国語への翻訳を始めた。しかも、正確を期すため、中国語の文語体での翻訳であった。
 彼は、それをわが使命と定め、黙々と翻訳作業に励み続けた。
 ――この翻訳は、台北支部の解散から三十四年後の一九九七年(平成九年)に、御書全編が終了し、中国語版御書の完成となるのである。
 更に、文化・芸術と宗教が密接不可分の関係にあるならば、文化活動を通して、仏法の人間主義の精神を次の世代に伝えていくことも可能なはずだと考え、青少年のためのハーモニカ隊を結成したのである。
 いかなる状況下でも、信心はできる。広宣流布に生きることはできる――それが朱の信念であり、決意でもあった。
47  操舵(47)
 朱千尋(チュー・チェンシュン)は、時間を見つけては、個人的に同志を励ました。皆に功徳を受けさせ、仏法への不動の確信をもたせたかったのである。
 彼から激励された人びとは、懸命に唱題に励み、多くの功徳の体験をつかんだ。すると、その喜びを人に語らずにはいられなかった。それを聞いた人たちのなかから、自ら題目を唱える人が出始めた。
 この″冬の時代″にあっても、正法は、自然のうちに、深く社会に根差していったのである。
 やがて、台湾は民主化の道をたどり始め、宗教に対しても寛容な態度がとられるようになった。
 一九八七年には戒厳令も解除され、九〇年には台湾の組織として「仏学会」が、晴れて団体登録されることになる。台北(タイペイ)支部の解散から、実に二十七星霜が流れていた。
 しかも「仏学会」は、その後、文化祭などの諸活動による社会貢献の業績が高く評価され、内政部から″優良社会団体″として、何度も表彰されるようになるのである――。
 山本伸一は、台湾の組織が解散させられた報告を聞くと、いよいよ激動の時代に入ったことを、深く自覚せざるをえなかった。
 ″創価学会丸″が社会の海原へ、世界の大海に船出した今、激浪が猛り狂うことは当然といってよい。
 たとえば、日本で公明会が政治改革に乗り出せば、その母体の学会が既成政党の攻撃の的となり、更には、世界の国々も、学会に警戒の目を向けることは明らかであった。
 また、学会は地球民族主義を掲げ、全人類の幸福と平和を目的としている。しかし、社会主義陣営の国と交流すれば、自由主義陣営の国からは批判を浴びることになるし、逆のケースもあることを覚悟しなければならなかった。
 そのなかで、イデオロギー、国家、民族を超えて、人間の心と心を結び、恒久平和の実現という、世界の広宣流布をめざすことは、まさに人類史的実験といってよかった。
 しかし、いかに波浪は激しく、嵐は猛るとも、人間の勝利の旗を打ち立てるために、伸一は新世紀の大陸に向かって、必死になって舵を操るしかなかった。
 三十五歳の青年会長の操舵に、広宣流布のすべてはかかっていたのである。
 目前には、会長就任三周年となる五月三日が迫っていた。

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