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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「立正安国」 立正安国

小説「新・人間革命」

前後
29  立正安国(29)
 この八月には、アジアに続いて、学会本部から幹部を派遣しての海外指導が行われた。
 メンバーは、副理事長でアメリカ総支部長の十条潔をはじめとする九人で、北米の北部、北米の南部、南米の三グループに分かれ、八月の十三日から二十八日までの十六日間にわたって実施された。
 この派遣メンバーにとっても、山本伸一会長の「立正安国論」講義は、最大のエネルギー源となった。世界平和の礎を築くための派遣だという思いが、彼らの闘志を燃え上がらせた。
 一行は、行く先々で、全力でメンバーの激励にあたるとともに、組織の整備に力を注いだ。
 そして、北米では、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントンに支部を、ニューヨークをはじめ、各地に二十三の地区を結成した。
 また、南米では、ブラジルに五地区を結成。更に、パラグアイにも初の地区が誕生したのである。
 南米グループは、このパラグアイに向かうのに、ブラジルのサンパウロから、飛行機でイグアスの滝の近くの空港に出た。
 そして、ジープに乗り継いで、丸一日掛かりで、アルゼンチンのポサダスという町に行き、そこから、パラグアイのチャベスと呼ばれる、日系人の移住地に入った。
 このチャベスには、三十四世帯の日系人メンバーがいたのである。皆、開拓のために入植した人たちであった。組織もないなかで、同志は奮闘していた。
 彼らは、を紅潮させながら、信仰体験を語った。
 当初、入植した地域には、赤く濁った水しかなく、とても飲料には適さなかったため、良質の水が出ることを願い、真剣に唱題したところ、新しい、冷たく澄んだわき水が出たとの体験もあった。
 開拓地とあって、どの家も小さく、柱に、無造作に板を打ちつけた、掘っ立て小屋のような質素な家である。しかし、メンバーは意気軒高であった。日本から送られてくる聖教新聞を、すり切れるまで回し読みしては、信心に励んできた。
 そして、布教にも力を注ぎ、信心をする人も増えてきているという。
 「ここは作物もよく実ります。いいところです。私たちは、この国を幸せの花咲く楽園にしていくつもりです」
 それが、メンバーの決意であった。そのパラグアイに、地区が誕生したのだ。
 幸福と平和の波は、少しずつではあるが、着実に、世界の隅々にまで、広がろうとしていたのである。
30  立正安国(30)
 九月に入ると、組座談会は次第に軌道に乗り、そこで発心した友の体験が、学会本部にも、続々と寄せられるようになった。
 山本伸一は、九月は、十五日に総本山に行き、その後、台風十八号(第二室戸台風)で被害を受けた大阪の同志の激励などのため、関西を訪問した以外は、東京で過ごした。
 十月四日から二十日間にわたる、ヨーロッパ訪問の準備があったからである。
 主な訪問地は、デンマークのコペンハーゲン、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ、西ベルリン(当時)、オランダのアムステルダム、フランスのパリ、イギリスのロンドン、スペインのマドリード、スイスのチューリヒ、オーストリアのウィーン、イタリアのローマなどである。
 訪問の目的は、現地の会員の指導、大客殿の建築資材・調度品の購入、更に、宗教事情などの視察にあった。
 伸一が、この時、最も心を痛めていたのは、ドイツの人びとのことであった。
 八月十三日の未明、東ドイツ(当時)は、突然、東西ベルリンの境界線に、四十数キロメートルにわたって、鉄条網の「壁」を設置したのである。
 ベルリンはドイツが東西に分けられて以来、東ドイツのなかに孤島のように存在していた。そして、ベルリンも西と東に分けられてはいたが、自由に行き来することができた。
 しかし、西ベルリンを通って、東ドイツから西側に脱出する人が後を絶たなかったことから、東ドイツ政府は境界線を封鎖したのである。
 東西ベルリンを結ぶ道路も大半は封鎖され、戦車、装甲車が配置された。残った道路には、検問所が設けられ、自由な往来は禁じられた。地下鉄も、境界線で折り返し運転となった。
 この鉄条網の「壁」は、十三日以降、刻一刻と、拡張され、厳重になっていった。そして、まもなく、コンクリートやレンガの、冷酷な「壁」が築かれるに至ったのである。
 突然の封鎖によって、家族、親戚、あるいは恋人同士で、離れ離れになってしまった人もいたであろう。
 それは、東西冷戦の縮図でもあった。イデオロギーが人間を縛り、人間を分断させたのである。
 伸一は、ヨーロッパ訪問を前に、一人誓った。
 ″今こそ、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を、広く人びとの心に、浸透させていかなくてはならない。世界の立正安国の道を開くのだ……″
 彼は、二十一世紀の大空に向かい、大きく平和の翼を広げようとしていた。

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