Nichiren・Ikeda
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26 慈光(26)
山本伸一たちの一行は、昼過ぎに首都ワシントンを発ち、夕刻、ニューヨークに着いた。
いよいよ明日は、アメリカを離れ、ブラジルのサンパウロに向かう日である。
夜は、それぞれ荷物を整理するなど、出発の準備に時間をあてることにした。
夕食の後、同行の幹部は買い物に出かけたが、伸一はホテルに残った。
依然として、体調が思わしくないのである。いや、むしろ、最悪な状態になりつつあった。
ニューヨークからブラジルのサンパウロまでは、十時間余の空の旅となる。
しかも、現地との連絡もままならず、詳しい状況はつかめずにいた。心身ともに、労多き旅になることは間違いなかった。
伸一は、背広のポケットにしまった恩師・戸田城聖の写真を取り出すと、ベッドで体を休めながら、その写真をじっと見つめた。
彼の頭には、戸田の逝去の五カ月前の十一月十九日のことが、まざまざと蘇った。それは恩師が病に倒れる前日であった。
伸一はその日、広島に赴こうとする戸田を、叱責を覚悟で止めようとした。恩師の衰弱は極限に達して、体はめっきりとやつれていた。更に無理を重ねれば、命にかかわることは明らかだった。
伸一は、学会本部の応接室のソファに横になっている戸田に向かい、床に座って頭を下げて頼んだ。
「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
彼は、必死で懇願した。しかし、戸田は毅然として言った。
「そんなことができるものか。
……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ。伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ!」
その烈々たる師の声は、今も彼の耳に響いていた。
──あの叫びこそ、先生が身をもって私に教えてくれた、広宣流布の指導者の生き方であった。
ブラジルは、日本とはちょうど地球の反対にあり、最も遠く離れた国である。そこで、多くの同志が待っていることを考えると、伸一は、なんとしても行かねばならないと思った。そして、皆を励まし、命ある限り戦おうと、心を定めた。
彼の心には、戸田城聖の弟子としての闘魂が燃え盛っていた。
27 慈光(27)
山本伸一は、これまで、体調を整えようと、自分なりに、休息の時間をとるように心がけてきた。
それも、当初のスケジュールを変更することなく、ブラジル訪問を実現するためであったといってよい。
彼は、しばらくすると、ベッドから起き上がった。そして、イスに座ると、御守り御本尊に向かい、真剣に題目を唱え始めた。
大生命力を自身の内より引き出し、病魔を打ち破らんとする、ひたぶるな祈りであった。
長い唱題であった。彼が唱題を終えると、ドアをノックする音がした。副理事長の十条潔であった。
十条は、数日前から、山本会長のブラジル行きは、止めるべきではないかと、考え続けてきた。日を追うごとに、伸一の体調が悪化していることを感じていたからである。
最初にニューヨーク入りしたころから、伸一の衰弱は、ことに激しくなったようで、目の下に隈さえ浮かんでいたのを、十条は見逃さなかった。
彼は、一人で悶々と考えた。山本会長のブラジル訪問は、広宣流布の未来構想のうえから、熟慮し抜いて練られたものであることをよく知っていた。それを止めれば、その広布の構想を崩しかねないことが、わかっていたからである。
しかし、ブラジル行きを強行すれば、山本会長は、間違いなく倒れるだろうと思えた。彼は、同行の幹部の責任として、それを黙って見ているわけには、絶対にいかなかった。
十条は悩み抜いた末に、ほかの幹部とも相談した。そして、伸一のブラジル行きを止めようとして、やって来たのである。
伸一は、ドアを開け、十条を部屋に招き入れた。
「やあ、十条さんか。買い物はすんだの?」
「はい、行ってまいりました」
「どこへ行ったの?」
「デパートですが、意外に日本製が多いのに驚きました」
十条は、それから、居住まいを正すと、顔を強張らせながら言った。
「先生、誠に申しにくいことなのですが……」
「何かあったの」
十条は、思い詰めた表情で話し始めた。
「あすのブラジル行きのことで、お話しにまいりました。結論から申し上げますと、先生には、このままアメリカにお残りいただいて、私どもだけでまいりたいと思います」
伸一は、驚いたように、十条の顔を見ていた。
28 慈光(28)
十条潔は、勢い込んで一気に語った。
「先生が、著しく体調を崩しておられることは、誰の目にも明らかです。ここで無理をなされば、それこそ、取り返しのつかないことになります。
もしも、先生がお倒れにでもなったら、学会は柱を失ってしまいます。そんなことになったら……。
もっと早く、このことを先生に申し上げようと思っておりましたが、ついつい先生の前に出ると、それを口にすることができませんでした。
差し出がましく、僣越であることは、十分にわかっております。
しかし、先生には、どうか、お休みになっていただきたいのです。それがみんなの気持ちでもあります」
十条はここまで語ると、哀願するような目で、山本伸一を見た。
「十条さん、ありがとう……」
こう言って、伸一もまた十条を見すえた。その目には決意の炎が燃えていた。
そして、伸一は、強い語調で言った。
「しかし、私は、行きます。私を待っている同志がいる。みんなが待っているのに、やめることなど断じてできない。
ブラジル訪問は、今回の旅の大きな目的だったではないですか。そのためにやってきたのに、途中でやめることなどできない。
戸田先生が戦いの途中で引き返したことが、一度でもありましたか!
私は戸田先生の弟子です。行く、絶対に行く。もし、倒れるなら、倒れてもよいではないか!」
気迫に満ちた、火のような闘志にあふれた言葉であった。束の間、沈黙が流れた。ただ伸一と十条の目と目が光っていた。
十条は、ゴクリと唾を飲み込んだ。彼は、更に説得しようとしたが、何も言えなかった。
伸一の決定した胸の内を聞いた十条は、もうこれ以上、伸一に語る言葉はないことを知った。そして、熱い感動が込み上げるのを覚えた。
「山本先生! ……」
十条は潤んだ目で、伸一を見て言った。
「よくわかりました。申し訳ございませんでした。ただ、ただ、どこまでも、先生のお供をさせていただきます」
伸一の顔に、微笑が浮かんだ。
「行こうよ、海の果てまで。戸田先生に代わって」
既に伸一の心は、軽やかに、まだ見ぬ新天地・ブラジルを駆け巡っていた。