Nichiren・Ikeda
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37 錦秋(37)
朝のハイウエーを、一台のステーションワゴンが疾走していた。ハンドルを握っているのは、正木永安である。
トロントからニューヨークに移動するために、空港に向かう山本伸一の一行であった。
正木の顔には、うっすらと汗がにじんでいた。
ニューヨーク行きの飛行機の出発時刻は午前十時であった。朝八時にはホテルを発つ予定でいたが、それまでに全員がわず、出発が二、三十分ほど遅くなってしまった。
正木は、その遅れを取り戻そうと必死だった。彼は地図を片手に、フルスピードで空港を目指した。
ところが、空港にはなかなか到着しなかった。
時計の針は、既に午前九時十分を回っていた。
「まだ、着かんのかね」
背後から石川幸男の声がした。
「正木君、この道は、一昨日、走った道とは違っているぞ」
言ったのは、秋月英介だった。正木は次第に不安がつのり始めた。しかし、地図を見ると、間違いなく空港はその方向にある。
しばらく、そのまま走ったが、正木は途中でハイウエーを降り、近くの農家に駆け込んで電話を借りた。
空港に問い合わせ、一行が、目指しているモルトン(Molton)空港(後のトロント国際空港)の場所を尋ねた。
すると、意外な答えが返って来た。空港は、今来た道とは、正反対の方向にあるというのだ。
「しかし、地図には、この方向に空港が記されていますが……」
「ああ、それはミルトン(Milton)空港という、空軍の飛行場です」
正木は、愕然とした。まさか、「0」と「I」の一字違いで、二つの空港があるとは思わず、この方向にモルトン空港があると信じ切っていたのだ。
飛行機に間に合わなければ、伸一たちの計画はすべて狂ってしまう。ニューヨークの空港には、多くの同志が出迎えにきているはずである。
正木は、あのハワイでの出迎えの時と同様に、全身から血の気が引いていくのを感じた。
彼は、車に戻ると、伸一に向かって、蒼白な顔で言った。
「すいません。道を間違えていました。すぐに引き返します」
正木は、深々と頭を下げた。そして、車に乗り込むと、エンジンを全開にし、猛スピードで走り始めた。
38 錦秋(38)
ハンドルを握る正木永安の耳に、後部座席で話し合う、石川幸男と山平忠平の声が聞こえた。
「間に合いますかね。遅れでもしたら、えらいことになるからな」
「そうだな。間に合わないかもしれないね」
その言葉に、正木の胸は疼いた。彼は更にスピードを上げた。
「正木君、そんなに急がなくていいよ。事故を起こしてはいけない。遅れたなら、遅れたでいいんだよ」
山本伸一は正木を気遣った。本人は、大変な失敗をしたと、慙愧の念でいっぱいであるにちがいない。その張り裂けそうな胸のうちを、伸一は少しでも楽にしてやりたかった。
ようやく、彼方にモルトン空港が見え始めた。正木は心で題目を唱えながら、必死でハンドルを操った。
空港に到着した時には、時計の針は、既に十時を少し回っていた。一行は一縷の望みを託して、急いで搭乗カウンターに向かった。
正木が息せき切って、便名を言うと、係員は「その便は、今、出発しました」と気の毒そうに英語で告げた。まだ若い、二十代と思われる係員であった。
次の便の出発時刻と空席の有無を尋ねた。
「次は十二時十五分ですが、あいにく満席です。本日は、午後十時十五分の最終便まで満席です」
正木は伸一に、申し訳なさそうに、それを伝えた。一行は途方に暮れた。
それから、正木は、またカウンターに行き、係員に事情を話した。
若い係員は、「それはお困りでしょう。無事にニューヨークに着けるように手を尽くしてみます」と言ってくれた。
係員の青年は、どこかに二、三本、電話を入れて、カウンターを離れた。
皆、不安と焦りが入り交じった顔で、係員の後ろ姿を見ていた。
「旅では、いろいろなことがあるものだよ」
伸一は、そんな皆の心をなだめるように、気を使っていた。
しかし、彼もこれ以上、ニューヨークで待つ同志に迷惑をかけることだけは、避けたかった。
十分ほどすると、係員が戻ってきた。
正木が不安そうに彼を見た。係員はニッコリと微笑みながら、英語で言った。
「もうしばらく、お待ちになってください。おそらく、大丈夫だと思います」
ほどなく、カウンターの電話が鳴った。待ち構えていたように係員は、電話を取った。彼は、電話の相手に、かなり長い時間、交渉してくれた。
39 錦秋(39)
空港の若い係員は、電話を切ると、にこやかに正木永安に告げた。
「別の航空会社の便になりますが、席を七人分確保することができましたよ。よかったですね。出発は十二時三十分です。荷物をあちらに運んでください」
正木は、跳び上がらんばかりの気持ちだった。一行に便が取れたことを伝えると、皆の顔にようやく笑顔が浮かんだ。
それから正木は、ニューヨークの空港に電話を入れて、アナウンスで一行の搭乗便が変わったことを伝えてもらうよう頼んだ。
山本伸一は、この若い係員の親切が何よりもありがたかった。
搭乗時間に遅れたのは、こちらの問題である。彼には、便宜を図る義務など何もなかった。
それにもかかわらず、便を確保するために、親身になって八方手を尽くし、奔走してくれたのだ。しかも、恩着せがましい態度はいささかもない。
伸一は、正木と一緒に、この係員のところへ行き、心から礼を述べた。
「サンキュウ・ベリーマッチ。あなたの真心に深く感謝いたします」
伸一が握手を求めると、若い係員も、にこやかに応じた。握った手と手に友情の鼓動が通い合った。
「よい、ご旅行を」
係員の青年は、こう言って、笑顔で一行を見送ってくれた。伸一は、この青年のことを、生涯忘れはしないだろうと思った。
人類愛を語ることは容易である。しかし、たまたま出会った見ず知らずの人の窮状を聞いて、力になることは難しい。見て見ぬふりをし、かかわりを避けてしまうのが、人の常だといってよい。
小さなことのようだが、人間としての思いやりと勇気がなければ、できないことである。人類愛や世界平和といっても、そうした身近な問題に、どう対処するかから始まるといえよう。
伸一は、それにしても、窮地を救ってくれる人が現れたことが、不思議でならなかった。
日本の同志が、彼の海外訪問の成功を願って、題目を送ってくれていることが、痛感された。
青年の好意に感動を覚えながら、伸一は機上の人となった。彼には、飛行機の窓から見える、燃えるようなメープルの紅葉が、ことのほか美しく感じられた。
視界に広がる錦秋の大地は、真心が織り成す、人間共和のまばゆい錦の絵模様に思えた。
伸一の胸には、平和への誓いの鐘が、一段と高らかにこだましていた。